前衛的言動にはお金の搾取という危険性がある

 最近hin-bpさんのブログで知ったのだが、「レールに沿ったつまらない生き方は嫌だ」として、ある大学生が大学を中退して起業すると述べたブログの記事が現在話題になっているという。それが↓の記事。



 一応読んでみたのだが、この記事に対してさまざまな意見がネットで飛び交っているという。いくつか読んでみたのだが、私が一番しっくりしたのは、ブロガーである付利意雷布亜(ふりいらいふぁあ)がお書きになった↓の記事。



 こうした「新しい生き方」だとか「雇われない働き方」だとか、既存の社会概念や常識から逸脱した言動について、私は前衛的言動と呼んでいる。上述の学生もこうした前衛的言動に乗り出した人物の一人だ。

 だが、前衛的言動というのはとかくお金が絡むことが多い。その悪い例が今回、付利意雷布亜さんも述べられていること。すなわち、前衛的言動に逃げた人々をカモにして、何らかの形でお金を搾取するシステムである。

 付利意雷布亜さんの記事で詳しく述べられているのだが、こうした前衛的言動をやたら強調する人物というのは、精神的負荷がない甘美な言葉で人々を惑わす。そしてそれに感化された人々を自分のセミナーなりサロンなりに引き込んで、お金を巻き上げる。

 こうなると、もはや単なるテーマパークである。一歩立ち止まって考えてみれば分かるが、そんなテーマパークにいたところでお金が稼げるわけでもなければ、何か得られるわけでもない。結局、量産される甘美な言葉ばかりに埋もれていくだけのカモとなるわけだ。

 三枝さんが運営されているNPO共育学舎のようにお金を一銭もとらず、純粋な善意で運営されているのなら、こうしたことは起きない。しかし、中途半端に金が絡むと、甘美な言葉を発してでも金を得ようとする活動に成り下がってしまうのだ。これは行政からの補助金目当てで運営されている、一部の悪質な障碍者就労支援などの福祉事業についても同じことが言える。


 上述のような活動について少し考えたのだが、金のためのカモ探しにならない純粋な活動というのは、お金を取らない活動にしてみることだと思う。三枝さんのNPO共育学舎やかさこさんの無料セミナーのような感じに。

 もしお金を取るとしたら、やる側・受ける側が双方納得してウィンウィンの対等な関係になるような活動じゃないと難しいだろう。

 最も理想的なのは、やる側・受ける側双方がお金(もしくは職能など別のこと)を得られることだろう。「本当にお金が稼げるのか?」という胡散臭さは出てしまうが、それを払しょくできるほどの活動であれば、参加のモチベーションが一番上がりやすくなる。いなかでのコネを通じた仕事紹介は、まさにこれにあたる。信頼関係など他に必要な条件などハードルも高いが、実現できれば一番のウィンウィンの対等な関係になるだろう。

 前衛的言動は掘り出してみるとネガティブな要素がいろいろと多いが、その反面ポジティブな解決策も上げていかないと、前には進めない。そのことを深く考えて、どうやればもっと良い案が出るか、考える良い機会となるはず。そうなればいちいち前衛的言動を気にする必要などなくなるであろう。


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「18歳成人」で自己責任の認識が強くなる

 9月2日、今朝の読売新聞で「18歳成人 21年にも」という記事を見つけ、非常に興味がわいた。下記はその一文。

 法務省は1日、成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げる民法改正案を来年の通常国会に提出する方針を固めた。18、19歳の約200万人が一斉に成人になることによる支障の有無や周知期間などについて、30日まで郵送や電子メールで国民の意見を募り、改正案に反映させたい考えだ。



 18歳成人になった際の影響として、ローンやクレジットカードの契約、民事訴訟ができるようになるという。また要検討ではあるが、飲酒・喫煙、競馬などのギャンブル、少年法の適応年齢などもあるという。

 個人的に気になったのは、飲酒・喫煙・ギャンブルのことだ。18歳成人が認められたら、これらに飛びつく若者はすぐに現れるだろう。だが、飛びついたら飛びついたで何かしら問題は起こるだろう。飲酒・喫煙では若くして癌などの疾患になるかもしれないし、ギャンブルでは依存症になって借金まみれになる可能性もある。

 それが良いか悪いかは別にしても、一つだけ言えるとしたら、それらの問題は自己責任に完結させれるだろうということ。いずれの要素も18歳成人となって、一人の責任ある大人の行為として認められるのだから、その延長で起きた問題は自己責任として問題解決を余儀なくされるだろう。

 18歳成人についてどうなるのか賛否両論ではあると思うが、実現されるとしたら「自己責任で問われることはあり得る!」ということだけでも認識しておいた方がいい。特に飲酒・喫煙・ギャンブルに飛びつく若者は、それを認識しているだけでも、将来起こるかもしれない病気発症や借金まみれになる人生のリスクを回避できるかもしれないのだから。


前衛的言動に逃げたところで何も解決しない

 数ヵ月前から、気になっている記事がある。それは女性ブロガー・作家のはあちゅうさんが旅をしている人に対する批判記事について書かれた記事だ。該当の記事は↓。



 このはあちゅうさんの記事はけっこう炎上しているようで、軽くネットサーフィンしていると批判意見がけっこう多い気がする。

 それはさておき、私も記事を読んでみたのだが、それほどひどいと感じる内容ではなかった。確かに「旅で人生が変わったとか言う人は中身がゼロ」というのは、少々言い過ぎだと思う。

 だが、それ以外の文章に目を通してみると、かなり筋の通ったことをはあちゅうさんは仰っている。それを最もよく表しているのが下記の文章。

世界の宝物である美しい風景を
実際に自分の目で確かめて
しみじみと感動を噛みしめることはあっても
それは、
何かを変えてくれるようなものではなく

あるとしたら
それをきっかけに自分を変えようと
自分が決断するかどうかなだけ。

旅ばかりしている人を見るとなんだか、
常に逃げているように見える
今日この頃で

しかもそれを過剰に飾り立てて
ビジネスにしている人を見ると
「んー?(*´ω`)」って思う。

なんかね…みんなどうか、騙されないでほしいよ…。
変なスパムとか、よくわからない教祖面の人にさ。



 私も旅とか旅行は好きだが、はあちゅうさんの仰る「常に逃げているように見える」という文章は同感だ。ここで言う「逃げている」とは「目の前のこと(現実)から逃げている」という意味であろう。無論、旅している人が皆現実から逃げているというわけではない。

 ただ、はあちゅうさんの仰る通り、旅を言い訳に現実から逃げているだけの人間は少なからずいるように思える。

 これは旅に限った話ではない。「新しい生き方」だとか、「雇われない働き方」だとか、世間一般の概念や価値観などにとらわれない言動(ここではそうした言動を「前衛的言動」と呼ぶことにする)に逃げている人も同じだ。

 そうした人達に共通するのは、単に目の前の現実から逃げているだけということ。目の前の現実が嫌なために前衛的言動に逃げているのだ。

 以前Twitterで仕事を辞めて旅をしたいという人がいたが、その人の文言を見ていると「この人は旅をしたいんじゃなくて、本当は目の前の仕事から逃げたいだけなんだな」と思った。文言には、就いている仕事に対する愚痴しかなく、旅に対する具体的なアクション(計画立てや資金稼ぎなど)は何一つ書いていなかった。

 こうした目の前の現実から逃げたい人というのは、とかく前衛的言動に逃げようとする。「そこに行けば、何もかも安泰!」と言わんばかりに。ただ、実際にそうした人の文言を見ていると、個人的に不快に思えてならない。己のやっている所業を過剰に盛りたて、不平不満があればギャーギャー騒ぎ立てる。単に不平不満を垂れ流して駄々をこねるだけのガキと同じだ。

 そうした前衛的言動に逃げている人というのは、現実的な側面の事柄を棚上げしているように思える。やたらと綺麗事や絵空事ばかり述べて、目の前の現実をより遠ざけている。そうした人が逃げたい人達同士の間で、もてはやされる。はあちゅうさんの仰る、それをビジネスにしている人や教祖面している人というのは、そういった類の人達であろう。

 あらためて書くが、前衛的言動に逃げたところで、問題は何一つ解決しない。逃げたところで生活に十分なお金が稼げるわけでもないし、社会的な生活が満足に送れるわけでもない。そんなことは、一歩立ち止まって冷静に考えてみれば、誰にでも分かることだ。

 では、どうするのか? 当たり前のことではあるが、前衛的言動なんかに逃げず、目の前の現実にしっかりと向き合うことだ。

 目の前のことに取り組むだけで、普段の生活も本当に充実してくる。前衛的言動なんかにすがるよりも、ずっと良い結果が出る。これは私が広島県大崎上島での生活で取り組んで、実感したことだ。目の前のことを黙々とやる。ただそれだけである。かつての私も現実から目を背けたり、逃げたりすることがあったが、現在ではしっかり向き合うことができるようになった。


 旅すること自体は悪いことではない。ただ、目の前のこと(現実)から逃げて、旅などの前衛的言動に逃げるのはいかがなものかと思える。そうした人に限って、不平不満でギャーギャー騒ぎ立てるだけで、チャンスすらもらえないのだ。

 チャンスを掴みたければ、まずは目の前のことをしっかりこなすことから始めればいいのである。それで結果が出るのであれば、現実と向き合う労力なんて安いものだ。


夏休み明けの子供の自殺

 今日の読売新聞の朝刊に興味深い記事があった。それが以下の内容。

【子供のSOS気づいて/自殺 夏休み明け多発】
 新学期の開始前後に、各地で子供の自殺が相次いでいる。内閣府の分析によると、夏休み明けの9月1日は年間を通じて子供の自殺が最も多い日で、文部科学省と各教育委員会などは、学校現場に注意を呼びかけている。
 内閣府が今年6月に取りまとめた2015年版「自殺対策白書」によれば、1972~2013年の42年間の18歳以下の自殺者の日付別に整理すると、9月1日が131人で最も多く、4月11日の99人、同日8日の95人、9月2日の94人、8月31日の92人と続き、自殺が長期休暇明け前後に多発していることが判明した。
 子供の自殺では遺書などを残さない傾向があり、周囲が予兆を察知するのは難しいとされる。このため、文科省は今月4日、各都道府県教委に対し、児童や生徒たちの細かな変化に注意を払うなど、自殺の予防に努めるようにした。
 <読売新聞 2015年8月31日 1面>



 こういうのを聞いて、いつも思うのだが、日本の学校教育で自殺が出てしまうのは当たり前だと思う。日本の学校というのは閉鎖的な空間だ。あまりに閉鎖的なゆえに、学校内の人間関係や学業生活がうまくいかなくなったり、途中から不調になったりすると、ポジティブに改善するのはかなり難しい。そんな刑務所のような息苦しい空間に戻されるというのは、苦痛であることは誰でも容易に想像できるはず。

 学校じゃなくても、一般的な就労の職場でも過剰なオーバーワークが過労死や自殺の原因で騒がれている。学校だろうと、職場だろうと、閉鎖的な空間ではネガティブな要素は生まれやすい。自殺問題が生じてしまうのは当然だ。

 学校も職場が閉鎖的な空間ゆえに自殺が起きるのであれば、その閉鎖的な空間を緩めるしか根本的な解決策はない。時間的な拘束時間を減らすだけでも、かなり自殺は減らせるはずだ。近年では、中学・高校で50分間だった授業時間が、現在では小学校と同じ45分間授業の学校も公立・私立問わず増えてきている。

 愚かなのは、世間はこうした問題が起こるとその元凶(犯人)捜しをやる。そんなことをしても見つからない(もしくは「木を隠すなら森」が如く、元凶はどこかに去ってしまう)のに、そればかりに注視する。そればかりか、詰め込み教育などの強化などから、余計閉鎖的な空間を強めようとする(就労も同じく)。どんだけ愚かなのか…。閉鎖的な空間で生み出されるものなど、たかが知れているのに、誰もそれを指摘せず、その空間を強めることが最善策だと考えている(この現状を余計煽るのが、取るに足らない社会の敵だったりするのだから、烈火のごとく怒りも湧いてくる)。


 今回の自殺問題からみる閉鎖的空間を巡る本末転倒の問題はいつになったら、解決のための本質に気づくのだろうか。少なくとも、「学力向上」などという名目の閉鎖的空間の強化をやっている以上、子供の自殺がなくなることは残念ながらないだろう。


負け犬が負け犬たる本当の理由(2)

前回の記事はこちら


 負け犬が負け犬たる本当の理由。それは、彼らが精神の自由を捨ててしまったことにある。精神の自由とは、誰もが自分の心の中にある絶対の自由である。社会的自由・経済的自由・時間的自由などはなくても、この精神の自由は己が捨てない限り、決して失うことはない。いわば、数ある自由の中でも最後の砦なのである。

 具体的にどのようなものかというと、例えば英語を勉強したいと考えている人がいるとする。その人は普段は仕事が忙しくて、じっくり勉強する時間は確保できそうにない代わりに、毎日5分でもいいからリスニングのCDを聴いて勉強している。現状で何かをする自由がなくても、何かしらの策を用いて、自分の考えていることや願っていることのために行動を起こす。これが精神の自由である。

 この精神の自由は、社畜批判などでよく耳にする「奴隷の鎖自慢」に書かれているものだ。元ネタとされる文章が、下記の内容だ。

奴隷の鎖自慢 (The chain is slave's boast.)

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
 
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。
 
過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決して その精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を血祭りにあげた。
 
現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
 
リロイ・ジョーンズ(Leroi Jones) 1968年、NYハーレムにて



 過去の歴史において、奴隷となった人々が悲惨な生活を強いられていたのは言うまでもない。だが、自身の不条理な境遇に甘んじることなく、逃亡や反抗の精神を見せたのは、彼らが自分達の持つ精神の精神を捨てなかったからに他ならない。だからこそ彼らは命を賭けてでも、逃亡や反抗の精神を見出すことができたのだ。

 だが、現代社会に生きる負け犬どもは、これほど重要である精神の自由を自ら捨ててしまった。自身の不条理な境遇に不平不満を洩らしながらも、そこに甘んじてしまっている。その証拠に、彼らは何も行動を起こさないばかりか、自分らとは違うことをしている人々を小馬鹿にして、己のちっぽけな自尊心や境遇を正当化している。そんなことをしたって、何も現状が変わるはずもないのに、彼らはそれをやめようとしない。

 彼らのような負け犬は、熊野のような何かしら事を起こしている人々に対し、「お金にならないんだろ?」「どうせ就職じゃないんだろ?」という、言葉を投げかける。だが、そんな言葉を投げかけたとて、だからなんだというのだ。そんな言葉を投げかけるのは、言っている当人がそうしたことを自分の心の中で気にかけている証拠だ。他人にそんな言葉を投げかけたとて、自分の気にかけていることが解決されるわけがない。ほんの少しでもいいから行動を起こせばいいのに、「どうせ無理だ」だの「もっといろいろ考えるべきだ」だの、くだらないまでに無意味にハードルばかり上げて、行動起こす機会を自らつぶしてしまっている。

 これらを負け犬の遠吠えというのである。さらに私から言わせれば、負け犬は人間ですらない。「生命反応のあるただのタンパク質の塊」と言ってもいいくらいだ。

 漫画の話ではあるが『るろうに剣心』にて、明治政府打倒を掲げる志々雄真実の軍団に制圧された新月村という小さな村が登場する。そこでは「歯向かわなければ生きていける」という考えのもと、村人が抵抗するのを諦め、犠牲となった村人すら見捨てる描写が描かれている。彼らはもはや人間としての尊厳も何もない、ただ生きるだけの家畜同然として卑しく生きている。これも精神の自由を捨てた良い例であろう。

 るろ剣の村人にしろ、スタッフのFにしろ、負け犬はどこまでいっても負け犬。上述した奴隷と同じである。そんなにものに甘んじたところで、何も得るものがないばかりか、自分を取り巻く状況が良くなるはずがないのである。仮にあったとしても、普段から不平不満ばかり漏らして、気づかないまま終わるだろう。

 精神の自由を捨てるということは、自分の考えていることや願っていることのための情報すら、無意識にシャットアウトするようになってしまうのだ。

 これは目崎雅昭さんの『幸福途上国ニッポン』にも書かれている学習性無力感と呼ばれる理論から成る。ストレスフルな環境に置かれた状況に甘んじてしまい、そこから脱出可能な状況であっても逃げ出すことを自ら拒否してしまう心理現象である。負け犬はまさにこの理論にピッタシと当てはまっている。

 現在はネットが普及し、(信憑性や正確性は別にして)何かしらの情報は得やすい時代となったが、負け犬はそうしたことをしない。目の前に自分の欲しい情報が転がっていても、自ら無視しているのだ。こんなんで状況改善など望めるはずがないのは至極当然である。精神の自由を捨ててしまうことがいかに愚かなことかは、これだけでも充分理解できるだろう。


 数ある自由の中でも最後の砦である精神の自由。「捨てるな!」といっても、言葉があまりに抽象的過ぎてイメージしづらいものではある。だが、前述・上述した文章通り、これを捨てた負け犬は、あなたの周りにもきっといるはずであろう。それを思い出してみれば、おのずと答えは出る。私達がそうならないよう常に意識し、行動を起こすよう心がけることである。どんな小さなことでもいい。まずは動いてみなければ始まらない。これはいつの時代も変わらない、不変の真理なのだから。