何もしないで「ニート・ひきこもりを受け入れろ!」と騒ぐ輩は、他人に依存して逃げているだけの愚か者である

 以前こちらの記事でも書いたのだが、当ブログのコメントにウジウジと居座る輩が出てきた。この輩は主体性がなく、自分で何かを成そうとする自立の意識が全くと言ってもなかった。それどころか、「他人が変わるべき。他人が動くべき」と言わんばかりに、他人に対して「ああでもない、こうでもない」といった文言ばかり並べていた。

 その輩が以前こちらの記事にて、以下のような主旨のコメントを残してきた。原文は消してしまったので、私が思い出した限りでの内容を書いていく。

あなたの考えには危なっかしいものを感じます。
あなたはがんばらないニート・ひきこもりは認めないそうですが、自分がいまやっている就活とかがうまくいかなくなって、彼らと同じ穴の狢になった時に、自分で自分の首をしめることになるのですよ。
もう少し寛容になった方がいいと思います。



 私はこのコメントを読んだ時、呆れるほどうんざりした。

 さっきも言った通り、この輩には主体性がない。「相手がどうの…」と他人に対する要求ばかりで、「自分がどうするか」といった主体的(自主的)な行動や意識がまったく見られない。「動くべきは他人であって、自分じゃない」というわがままが見えている。自分自身は一切動こうとしない。

 「同じ穴の狢になったら…」というが、なぜそこで自分自身が動こうとしないのか。同じ穴の狢になったとしても、「なんとか頑張って、自分から抜け出そう」とか「そうならないように、普段から気を付けよう」といった意識がまったく見られない。どこまでいっても、自分で何かをしようとする意識がなく、他人ばかりに要求を通そうとする。

 以前も書いたが、この輩は他人に依存している。依存しているから、自分で何かをやろうとしたりする意識や思考がない。いつまで経っても「他人がどうの…」と言って、改善すべき問題には自分が主語ではなく、他人が主語になっているのである。

 この輩は某有名ニートの名前を何度もあげていたが、こちらから見れば「で、だから何?」という話だ。

 ハッキリ言おう。某有名ニートのことを何十回、何百回、何千回、何万回言おうが、某有名ニートは私たちを助けてくれない。相手だって所詮は人の子。万能の神様じゃない。いくらすがろうが、崇めようとしようが、最終的な自分自身の問題は自分自身で解決しなければならない。

 この輩はハッキリ言って、甘ったれているのだ。大方「何かあっても、某有名ニートに助けてもらえばいい」といった、依存の魂胆があるのだろう。だから、某有名ニートの名前ばかりをあげて、自分自身は何もしようとしない。そうやって他人に依存することしか考えていないのだ。

 それともう一つ。この輩は逃げているのだ。

 「働きたくない、社会が悪い、他人が悪い、嫌だ嫌だ嫌だ…」

 こんな風に目の前の生活や仕事、自分自身のことなどのいろいろな物事にろくに向き合おうとせずに逃げて、文句ばかり言っているような輩なのだろう。自分の問題や不満に対して、改善のために考えたり行動したりしているのであれば、こんなことはない。改善すべき問題への行動も、他人が主語ではなく、自分が主語になるはずである。「他人がどうの…」ではなく「自分自身がどうするか」という風に。

 いろんな物事から逃げているから、他人に依存しようとする。だから、自分自身が何かをしようと行動する意識が見られない。結局はそうやっていろいろな物事に向き合おうとせず、ただ単に逃げているだけだ。

 そうやって逃げたいのであれば、勝手に逃げればいい。だが、「他人が変わるべき。他人が動くべき」と言わんばかりのくだらないわがままは言語道断である。それを他人に対して貫こうとするのももってのほか。逃げているくせに己のわがままを通そうとするのは、負け犬以下のゲスな行為だ。それこそ、根本から考え直すべきことであろう。


 最後に今回のコメントに対して一つ。

 「同じ穴の狢になったとしても、テメエみたいな負け犬とは絶対一緒にならねえよ」

 同じ穴の狢になったからといって、「ニート・ひきこもりでいいや」と言い合っているようでは、単なる負け犬同士の傷の舐め合いで、何の進展もない。そうではなく、「どうしたら自分自身がより良くできるのか」を考えて行動して、悪い状況から脱却できることを心がける。

 前述した通り、某有名ニートの名前をどんなに出したところで、某有名ニートは助けてくれない。そんなのに過剰な期待をかける方がお門違いというもの。この輩はいい加減に自分自身の現実と向き合うべきだろう。それが理解できないのであれば、いつまでも自分の人生が好転することはない。いつまで経っても駄々をこねるだけのガキである。

 他人に依存し逃げているのは愚か者の極みである。自分で自分の首を絞めているのは、この輩の方である。そうしたくなきゃ、自分で自分を動かせ。まずはそこからだ。


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主体性なき者に自立や成功は決してない

 数日前にまた当ブログのコメント欄でウジウジウジウジ居座る輩が出てきた。当ブログのことについてどう思おうが個人の勝手だが、いつまでもウジウジ居座ってばかりいるというのはバカと言うほかない。

 「自信があるのなら、自分でサイバースペースを持って、そこで自由に述べればいい」

 私は相手にこの言葉を述べてきたが、相手は聴く耳持たず。それで、当ブログのコメント欄にウジウジウジウジ居座って、ろくでもないコメントばかり残していく。「くだらねえことに油売ってないで、さっさと行動しろよ!」と、こちらはこうした輩にはいつも思う。


 さて、こうした輩について思ったことがある。それは主体性がないこと。ここでいう主体性とは、自ら動いて事を成そうとすること。簡単に言えば、自分で自分を動かす行動力だ。

 今回のような輩、すなわち他人のサイバースペースにウジウジしている輩も含めて、主体性がないことに気づいた。「主体性がない=自分で何かを成そうと行動しない」ということだ。要は自立の信念と行動力がないのだ。

 今回の輩は某有名ニートのことばかりをやたらと持ち上げていたが、そこに自分が何かをしようとする意識が感じられなかった。ただ、「自分が困ったら、某有名ニートに助けてもらおう」という依存の意識しか見られなかった。

 こういった輩は自分で何かを成そうとせず、相手に依存するしか考えていない。自分のコメントが他人のブログに載らないことも「他人のせいだ」と言い張る始末。ネットの情報発信ぐらい自分でいくらでもできる時代に、それをやろうとしない。そんなことするのは自分で何かを成そうとする自立の意識がなく、他人になんかとかしてもらえばいいという依存の意識が、こうした輩の根底にあるからだ。

 自分で何かを成そうとする人は、ネットの情報発信でも、何かしらの活動を従事するのでも、がんばって活動されている。それが仕事であろうと、勉強であろうと、就活であろうと、趣味であろうとだ。

 一方今回の輩のように相手に依存することしか考えていない輩は、結局自分で何もしない。誰かが助けてくれるのを待っているだけだ。そんな風に待っていたって、成功のチャンスは絶対にめぐってこない。宝くじを買わないくせに、高額当選の夢ばかり見ていると同じだ。

 少しでも気になること・やりたいことがあるのなら、つべこべ言わずに行動すればいい。行動する(行動した)からこそ、得られるものがある。ネット上で情報発信している人は、そうしたエピソードをいくらでも発信している。

 それなのに行動しないのは、自分に自信がないばかりでなく、誰かに依存しようとして、事を成そうとするゲスな魂胆があるからだ。そんなものは私でなくたって、周りの人間が見えればハッキリわかる。他人は決してバカじゃないし、ゲスな魂胆は誰が見たってわかるほど醜いものだ。


 もう一度書くが、少しでも気になること・やりたいことがあるのなら、つべこべ言わずに行動すればいい。それができないのであれば、「黙っていろ!」と言いたい。いつまでもウジウジしている輩に手を差し伸べる人なんていない。そうした中で「手を差し伸べろ!」だなんてギャーギャー騒いでいるのは、単なる自分勝手なわがままだ。

 依存することばかり執着して、自分から動こうとしない輩に得られるものは何一つない。主体性なき者に自立や成功は決してない。自立や成功をつかみたければ、まずは自分で自分を行動させること。それは他人を動かすこと・変えることでは決してない。

 まずはつべこべ言わず行動しろ。ただそれだけのこと。


身口意三業

 昨日サポステの面談だったので、私の担当である相談員のTさん(仮名)に現在の進展について、いろいろ報告した。私が「何もない状態に火をつける」という話をした際に、Tさんは興味深く聞いてくださった。そこでTさんはある言葉を教えてくださった。

 それは「身口意三業」という言葉。

 読み方は「しんくいさんごう」。Tさん曰く、仏教の教えにある言葉だそう。この言葉の意味や解釈については調べてみるといろいろ出てくるのだが、ここではTさんが説明してくださったことを書いていく。

 身口意三業という言葉の漢字には、それぞれ下記の意味があるという。

身=動く・行動する
口=言葉にする・明確にする
意=感情が来る



 これら三つの言葉を合わせて三業という。三業は人間の行動パターンについて表したものだそうで、その順番によって、その人の行動した結果に影響するのだという。普通の人は上記の三業について、右から行動パターンに陥ってしまうという。分かりやすく書くと、下記のようになる。

 意→口→身

 すなわち「感情が先に起きて、その後に意識化して、最後に行動を起こす」という流れになる。だが、実際にこれだと最初の感情に左右されて、最後の行動まで起こせなくなるという悪いパターンになるという。

 そこで仏教の教えでは、右からではなく左からの行動パターンで動くと結果的に良い結果が出せるという。分かりやすく書くと、下記のようになる。

 身→口→意

 すなわち「行動を起こして、その後に意識化して、最後に感情を起こす」という流れになる。ここで注目すべきなのは、最初に行動を起こすことによって、結果的に何かしらの結果を得ることができるという行動パターンができあがるのだ。どういう結果になるかはさすがに物事に寄りけりではあるが、少なくとも感情に左右されて動けないよりかは、良い結果が残せるという。

 この言葉を教えてくださったTさんはかなりの行動派で、自身曰く「石橋を叩かないで渡る」と仰るほど、いろいろな物事にチャレンジしてきたという。その分、大事に至るほどの失敗も重ねてきたそうなのだが、得られる結果や物事も多かったという。

 Tさんはそうした自身の経験もあって、私が現在の就活において「何もない分、とりあえず何か動いてみる」という動きについて、とても賛同してくださった。

 身口意三業の意味をおおまかに言えば、「まずは動いてみるとことで、何かしら目的を達成してみる」ということ。私は就活に対してポツンと明確な糸口がない状態になので、なおさら今回の言葉にはビビッとくるものを感じた。動くことをやめず、これからも継続していこうと思う。


仕事に自分を合わせてみる

 2月10日の金曜日に、渋谷にある東京わかものハローワーク(以下:若ハロ)のナビゲーターさんであるIさん(仮名)との面談に行った。その際、Iさんから私自身の就活のことについてある提案があった。それは就活の現状をより良くするための打開策として、新しい職種・業種の分野へ選択肢を拡げるというのもの。

 いままで私は自分の興味や適性の観点から、製造業・倉庫業・統計調査の3つの選択肢をもとに就活をしてきた。

 だが、ここ最近は自分にしっくりくる求人になかなか出会えなかったり、面接までこぎつけても結果がボツに終わったりしていた。そうした状況が続いたこともあり、就活に対する自分自身のモチベーションも落ちてしまっていた。

 そうした状況を見ていたIさんは私に新しい選択肢として、施工管理の求人をいくつか持ってきてくださった。Iさんが持ってきてくださった求人は、施工管理のお仕事ではあるのだが、どちらかというと製造業の分野のお仕事も含む特殊な企業・業界のものだった。給料や社会保障、残業時間、休日日数などの待遇面もかなり良い内容。

 求人の内容をザッと確認してみたのだが、正直かなり悩んだ。施工管理という仕事に対し、これまで経験がないというのもあるのだが、本当に適性があるのかどうかがものすごく不安になった。

 そこにIさんが、不安に思っている私にいろいろと話をしてくださった。

 「選択肢がなかったら、今あるものに自分自身から興味を持ってみる」
 「最初から、興味・適正分野の線引きを決めない」
 「まずは動いてみて、そこからいろいろ学んでみる」


 これらの話をしてくださった後、最後にIさんはこう仰った。

 「仕事に自分を合わせてみる」

 と。この言葉を聴いた時、私はある方が同じことを仰っていたのを思い出した。それは、大崎上島で出会ったMさんである。

 それは去年、大崎上島に来て間もない頃のこと。私は長期のお仕事に就いてお金を稼ぐべく、大崎下島での農協のお仕事をするかどうか迷っていて、とても不安だった。遅刻せずに毎朝きちんと出勤できるかどうか、知らない人ばかりの職場でうまく人間関係がやっていけるかどうか、決められた2ヵ月間しっかり勤めあげられるかどうか。そんなことばかりが頭をよぎっていた。

 その話を聴いてくれたMさんは、私にこう仰ってくださった。

 「自分に仕事を合わせるのも大事やけど、仕事に自分を合わせるのも大切やで」

 と。この言葉を聴いた私は、なんとか頑張ってみようと思い、農協の仕事に従事した。結果、無事職務を全期間全うすることができた。

 今回の若ハロのIさんが仰った言葉は、まさにMさんが仰ったことと同じだった。久々にMさんの言葉を思い出して、私はとてもうれしくなった。今回の施工管理のお仕事についても、「まずはとりあえず調べてみて、応募してみようかな」という気持ちも湧いてきた。それだけ、私の心の中にMさんの言葉が響いた。

 Iさんとの面談の後、ジョブクラブの女性講師Nさんともお会いし、同じことを仰ってくださり、私を励ましてくださった。大崎上島の教えが今回のような場面で生きていると思うと、胸がとても熱くなった。


 帰宅してから、ネットで「仕事に自分を合わせてみる」というワードでふと検索してみると、以下のようなコラム記事を見つけて、とても参考になった。文章も一部引用してみる。



就職や転職をする際に「自分に合った仕事」を探すことは大切な判断基準のひとつであり、決して間違いではないと思います。しかし一方で、何が「自分に合った仕事」なのかは、経験してみないとわからないことが多いです。

そういう意味では「自分に合った仕事」と思っても、その実態は「やったことがあって、それなりに結果を残せた、楽しかった仕事(またはその類似)」程度のものなのかもしれません。そんな中で「自分に合った仕事」を選ぶということは、自分の他の可能性を排除してしまうことにつながりかねない、ということも認識しておく必要があるでしょう。

ならばいっそのこと、「自分を仕事に合わせる」くらいの気持ちでいた方が、様々なことにチャレンジしやすくなるかもしれません。これまでの経験から「合っていない」と先入観で判断するのではなく、やってみる、合わせてみる、という意識で取り組むことで、これまで気づけなかった自分の適性に気づけることもあるかもしれません。



 このコラム記事では、漫画『銀の匙』で書かれている言葉「自分に合った仕事に就くってのはもちろん格好良いけどさ、自分を仕事に合わせるってのも有りだと思うんだ」から、仕事の適性について書かれたもの。

 Mさんの言葉やIさんの言葉を思い出しながら、このコラム記事を読んでみると、「そうかぁ、そうすればいいのか!」と感じるところも多かった。


 施工管理という仕事がどれほど自分に合った仕事なのかは分からない。今後の就活を進めていくうえでの選択肢にするかどうかも分からない。

 だが、現在の選択肢で手をこまねいて就活が停滞しているよりかは、何かしらの策を講じて、状況を良くしたいところ。ここは若ハロのIさんを強く信じて、今後の就活に臨んでいきたい。


自分を救えるのは自分しかいない

 私が去年、大崎上島に滞在していた時のこと。

 当時従事していた大崎下島での農協での仕事を終えて、Nさんの家に向かおうとしていた。その際、自分のスマホをチェックすると、和歌山のNPO共育学舎の代表である三枝さんから電話が入っていた。後々折り返し電話してみると、Nさんに用があるとのこと。

 Nさん宅に着いてから、三枝さんとNさんは電話で話をした。私はそばで両者の通話を聞いていたのだが、どうやら三枝さんからNさんに頼み事とのことらしい。

 通話後にNさんに詳しく聴いてみると、三枝さんの所の滞在者で大崎上島に来たい人がいるから、その人を受けて入れてくれないか、という話だった。だが、Nさんによるとあまり良い雰囲気の話ではなかったよう。

 結局その受け入れる人が来たのは、私が大崎上島を去ってからのこと。私はそのことをしばらく忘れていたのだが、ふと気になり、その後NさんやMさんを通して、その人の詳しいことを聞いた。

 受け入れた人はWさん(仮名)という男性の方で、私やNさんよりも年上の男性だという。

 だが、このWさん。NさんからもMさんからも、あまり良い話を聞かなかった。というのも、話を聞く限りではニート・ひきこもり気質の方であることが分かった。

 朝が起きられず、長時間の睡眠。地域の方から頼まれたお仕事をこなせずに、わずか1日目でボツ。見かねたMさんが「こんなことしてたら、誰も雇ってくれへんよ」とWさんに諭したほど。

 その後、Wさんの都合により、彼は帰省したという。また来たいという主旨の発言をしていたそうだが、Mさんは「もう来ないと思う」と仰っていた。Mさん曰く「(彼には大崎上島との)ご縁がなかった」とのこと。

 Mさんから他にも聴いたのだが、どうやらWさんは三枝さんや大崎上島の地域の方からも匙を投げられるほど、生活や仕事になじめなかったという。三枝さんと地域の方は「来るもの拒まず」の精神でやってらっしゃるのだが、そうした方々からもWさんは匙を投げられた。さらにMさんはこう仰った。

 「俺は優しい人間やないで。頑張っている人に背中を押してあげることはするけど、そうでない人にはやらへん」

 私はこの話を聞いた時、いろいろ思うことはあったが、一番に思ったのは、

 「ニート・ひきこもりから積極的に脱しようとしない人の未来って、こうなるのか…」

 と。Wさんには申し訳ないが、あの三枝さんやMさんから匙を投げられたという時点で、聴いていてかなり残念だった。特にMさんは道行く先で困っているお年寄りの方にお声をかけるほどの聖人のような方だ。その人からも匙を投げられては、非常に何とも言い難いネガティブなことである。

 MさんはWさんのことについて、「いまの自分を変えようとする姿勢や思いがみられない」ということも仰っていた。彼には、ニート・ひきこもり気質の自分を脱しようとする姿勢や思いがなかったのだろう。

 以前こちらの記事でも書いたが、「ニート・ひきこもりでいいや」「ニート・ひきこもりでいたい」という消極的な人に手を差し伸べる人はいない。こういう人達に対して、「そういう人達を受け入れたっていいじゃないか」と反論する人もいる。

 だが考えてほしい。「来るもの拒まず」で活動されている三枝さんや大崎上島の地域の方、頑張っている人に背中を押してあげるMさんのような方々から匙を投げられるような人を本当に受け入れたいのか、ということを。受け入れろと反論する人は、何のためにそうした消極的な人を受け入れたいのかと。

 三枝さんだって、大崎上島の地域の人だって、Mさんだって、Wさんのために行動されてきた。けど、Wさんはそれに応えず、ネガティブな結果を出してしまった。だから、どの方も匙を投げてしまった。普通の人はそんなことがないように精一杯行動する。朝だって早く起きて、仕事をして、生活をして、払うべきお金は自分できっちり払う。これが普通である。

 今回のWさんのような「ニート・ひきこもりでいいや」「ニート・ひきこもりでいたい」という消極的な人は、結局誰からも匙を投げられてしまった。Wさんの話を聴いていてさらに思ったのは、

 「自分はそうならないように、ニート・ひきこもりからは絶対に脱しよう!」

 と。三枝さんや大崎上島の地域の方、Mさんから匙を投げられてまで、ニート・ひきこもりでいる理由なんてどこにもない。それどころか、そんな状態に甘えていると、Wさんのような年齢になった時に、確実に自分の人生はネガティブなものになる。

 そして、最後に思ったのは、

 「自分を救えるのは自分しかいない」

 ということ。Mさんだって背中を押してくれる(サポートしてくれる)が、最終的にどうするかは、すべて自分自身なのだ。

 「ニート・ひきこもりでいいや」「ニート・ひきこもりでいたい」という消極的な人、そうした人を受け入れろと反論する人は、結局のところ自分で自分を救おうとする気がないのだろう。そうした人達はそんな自分を受け入れてくれる居場所を探すだろうが、どこへ行ってもそんな居場所は存在しない。今回のWさんのような結果になったとしても文句は言えない。そのことは覚えておくべきだろう。


 Wさんの話を聴いたのは去年の11月にNさんから、12月にMさんからいろいろ聴いた。Wさんには申し訳ないが、やはり今回のことは人生の教訓としていろいろ感じることが多かった。

 やっぱり自分を救えるのは自分しかいないのだ。ニート・ひきこもりのみならず、これは現代社会で生きる誰もが痛感することだ。

 でも、そこであきらめたら試合終了である。あきらめないためにも、自分で自分を救うことを念頭に行動していく。それしか道はないのだから。