自転車の原因はパンク

 以前こちらの記事で、帰宅途中に自転車のタイヤが壊れたことを書きました。そこで今日の仕事帰りに、近所(といっても歩いて20分もかかる)の自転車屋さんに、自転車をみてもらいました。

 自転車屋さん曰く、故障の原因はパンクだとのこと。

 ホイールやチェーンにからまったチューブを取り除き、チューブを新しいものに交換。費用は2600円なり。ただでさえ金がないのに、金がかかってしまったのはガッカリ。

 おまけに修理中に雨が降り始め、雨の中を傘もささずに、自転車に乗って帰ることに。これが原因で、明日風邪ひいてしまわないかな…。

 とりあえず、修理が終わって、自転車に乗れるようになったのは良かった。今後こうしたことは起こらないようにしたい。


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自転車壊れた…

 以前、勤め先の農業法人の社長の好意で借りさせてもらっている自転車ですが、壊れました。「壊れた」というより「一部破損した」という方が正しいかもしれません。

 それは今日の帰り道のこと。いつも通り自転車乗って家路を行く途中、ペダルのこぎ具合が悪くなりました。ギアチェンジで重いギアになったかのような、こぎ具合の悪さでした。変に思って、降りて見てみました。すると、後輪のタイヤがはずれ、中のゴムが後輪のホイールに絡み、チェーンのカバーを破損していました

 この状況、私も過去に経験がありましたが、今回は自暴自棄で暴れたくなるくらいに嫌になりました。解雇通告やら会社の赤字経営やらで、いろいろな問題が出てきた矢先の自転車破損。そうした問題がない状況ならまだしも、こう度々悪いことが重なると、「運命は俺をバカにして、嘲笑っているのか!」と、大人げないながらに思ってしました。

 とにかく貸し手である社長には、今回のことは「自分の不注意」しっかり謝罪して相談します。

 しかし、こうなると修理するまで自転車が使えません。アパートから現法人までは歩いていける距離ではありますが、自転車がないのは移動にものすごく不便。近くにはコンビニも郵便局も面倒な距離なので、外出範囲が狭まります。どうにかしたいものです…。


「やらない後悔」より「やる後悔」

 数日前に仕事の休憩がてら、職場の同僚であるMさん(仮名)と雑談した。Mさんとは就農以来かなり親しくなり、お互いに現法人では言えないような事柄についても話せる間柄になった。そんな中で、

 Mさんは現法人に就農するまでさまざまな職業をしてきた方だ。彼は専門学校卒業後に理容師になるも考え方などの違いから退職。その後、清掃会社に就職するも、そこも退職。一時期お坊さん(僧侶)になるために縁あった寺で修行するが、考え方や自身の心境の変化から、それを断念。それから、農業をやりたいと感じて、現法人に就農。現在の職以外はどれも2~3年ほどの年数で転職している。

 その中でも、彼はお坊さんの修行はかなり良い生活だったと話しており、現在の自分の人生においてもかなり影響しているとのこと。Mさんは修行するに当たって、親ともいろいろ話し合ったという。それだけ本気だったとか。

 私は和歌山での生活経験をMさんに話しており、Mさん自身修行生活の経験もあってか、私の修行生活をポジティブに見てくれている。お互いに和歌山の生活と、お坊さんの修行生活は通じるところがあるそうだ。


 今回の雑談で、私はMさんにある相談を思い切って持ちかけた。それは、「和歌山(共育学舎)に行きたいが、親への説得はどうすれば良いのか?」というもの。

 私は現在の仕事の不調もあって、共育学舎に戻りたい気持ちがだんだん強まっている。戻りたい理由としては2つある。「現法人以外で引き続き農業をできる場所への移転」と「長期にわたる自分自身の人生の見つめ直し」を、共育学舎にて再度やりたいと考えているからだ。

 私は先月に解雇通告をされた。もし、それが帳消しになったとしても現法人は赤字経営で、結局はネガティブな情勢で変わらない。かといって、他の農業法人や研修制度を目指すには、自身の精神疾患の心配もある。そうしたことから、戻りたいという気持ちが出てきた。

 だが、私の親は共育学舎に戻ることを快く思っていない。どんな親もそうだろうが、子供には「社会(世俗)のレールに乗った安定的な生活を送ってくれる」ことを望んでいる。私の親も例外ではない。私は親と仲が悪いわけでもないし、親との交流や助けで世話になっている分、親の話にそっぽを向くことは難しく思う。だからこそ、共育学舎に戻ることには、納得とはいかなくとも、お互いに快い気持ちで行動を起こしたいと思っている。

 かかりつけのお医者さんからは、「お金の心配はあるだろうけど、いまのあなたの状態を見たら、和歌山の生活はあなたの健康を取り戻すのに十分な所だ」と仰っており、私が共育学舎に戻ることに大きく賛成している。長期で共育学舎に戻って、診察の無い期間が続いても問題ない、というくらいのお墨付きだ。お医者さんからの勧めもあるので、戻ることへに対しての不安はない。


 上記のことをMさんに伝えたうえで相談した。Mさんの答えとしては「親への説得する良い方法はない」ということだった。だが、「やらない後悔」より「やる後悔」として、私が共育学舎へ行くことに賛同してくれた。

 というのも、Mさん自身が自分のやりたいことをやっている人生を送っているとのこと。彼は「自分がやりたいことができず(やらず)に後悔してしまうよりかは、やりたことをやってしまった方がいい」と語ってくれた。「どうせいつかは死ぬのだから、やってしまった方がいい」とも。

 Mさんの返事を聴いて、私が「共育学舎へ行きたい!」という気持ちは確信に変わった。「会社や社会がどうではなく、自分はどうしたいのか?」ということをあらためて気づかせてくれた。Mさんの返事は私にとってそれだけ印象深く、衝撃的だった。私の相談に乗ってくれたMさんには、大変感謝している。


 来月初めの週末に、私はかかりつけのお医者さん(メンタルクリニック)の診察のために、実家に帰る予定だ。その診察では、私の親とお医者さんと私との三者面談になる予定だ。私の口からは共育学舎のことは信じてもらえそうにないので、お医者さんを交えたうえで話し合うことに決めた。

 診察時の話し合いで、共育学舎に行けることになるかどうかは、正直当日になってみないと分からない。だが、私はそれでも「共育学舎に行きたい!」という気持ちに変わりはない。嘘偽りもない。それに現法人の就農とて、私にはもはや手に負えない問題だ。

 だからこそ、私は「共育学舎へ行く」というカードを持って、それを実行に移したい。それは会社のためでも社会のためでもない。自分のためだからだ。


ネットで活躍できる人・できない人

 当ブログを運営して、はや2年が過ぎた。心の中で「自分だけのWEBサイトを持ちたい」と考えていた高校時代から数年を経て、ブログという形でWEBサイトを持つことができた。

 さて、2年もブログを運営していると、さまざまなネットユーザーが日々私のブログを訪れに来てくれる。訪れに来てくれた人々を見ていて、思ったことがある。

 それは、「ネットで活躍できる人・できない人の違いが分かってきた」ということだ。

ネットで活躍することについてさまざまな見解があるが、ここでは「(ブログやTwitterなどの)何らかの個人だけのWEBサイトや情報発信ツールを持ち、それを駆使して自ら情報発信をする」ことと定義する。

 もちろん、ネットでの活躍の是非によって人間性や社会性を問うといった、大げさなことを言うつもりは毛頭ない。しかし、これだけIT技術やネット社会が普及した現代において、ネットで活躍しないというのは個人的にいささかもったいない気持ちがある。個人がどうするかは各自の自由だが、活躍できることで自分が取り組んでいる物事の可能性が拡がることが大いにあるからだ。

 ブログで訪れる人々は、何らかのWEBサイトを持っている人、情報発信をしている人、こっそりと訪れてはコメントという足跡を残す人、さまざまだ。そうした人々からネットで活躍できる人・できない人の違いがどのようなものなのか、今回はそれについて書いていこうと思う。


 最初に、ネットで活躍できる人とはどんな人なのか? さまざまな見解があるだろうが、私なりに考えて、以下の要素があると考える。

1.何かしら個人だけのWEBサイトや情報発信ツールを持っている。
2.1の場で、個人で情報を発信している。
3.どんな情報であろうと、1の場で発信することを心がけている。



 上記の要素は、情報発信に当たってどれも重要な要素だ。どんな情報発信であろうと、それが他人のサイトでの掲示板やコメント欄では、発信する情報の認識性が大いに異なるからだ。

 個人だけのWEBサイトや情報発信ツールを持つということはどういうことか。それは個展などで用いるフリースペースを例に考えると分かりやすい。

 インターネットという街道に並んでいるフリースペースでは、さまざまな情報が発信されている。個人が書いた文章、イラスト、音楽、動画、ソフトウェアなどなど。さまざまなものが、情報として発信されている。

 ここではより深く掘り下げるために文章で考えてみよう。文章には個人が書いたさまざまな主義・主張が書かれている。

 もし、この文章が他人のサイトの掲示板やブログのコメント欄に書かれたものだったら、どうだろう。残念ながら、その文章はあまり人に見られることなくひっそりと消えてしまう。

 なぜなら、それは文章の書き手だけが持っているWEBサイトや情報発信ツールで、発信された情報ではないからだ。それらで発信していれば、保管や編集も書き手の自由だ。しかし、掲示板やコメント欄は所詮他人のフリースペース。保管や編集は他人に委ねられてしまい、それらは時を経ると消えてしまう。永続的に残すこともできないのだ。

 他人のフリースペースである以上、書き手が思うような主義・主張が通らないこともある。そこでは書き手がサイトのメインとなることは決してない。主義・主張というのは、各個人に合ったフリースペースだからこそ、多くの人々が訪れてくれ、情報を受信してくれるようになっている仕組みだ。

 不特定多数の多くの人々に見てもらえてこそ、情報発信の醍醐味がある。特定の個人に向けてボソボソとコメントを残したりするのは、一般的な雑談の範疇に過ぎない物事であることが多い。雑談ならそれでも多いが、主義・主張のような硬い文章を記したい場合は、自分だけのフリースペースで書いた方がより多くの人に見てもらえる。何より、それによって共感してくれる人は出てくる確率が高くなり、書き手に対する信憑性も高まる。

 本が出版されるほどの有名ブロガーになったちきりんさんやニートのphaさんも、個人だけのWEBサイトや情報発信ツールを持っていたからこそ、現在の名声をなし得たのだ。もし、彼らがネットで活躍できずにボソボソとやっていたら、こうはならなかっただろう。


 ここまで読まれた方ならお分かりだと思うが、ネットで活躍できない人というのは、上記の要素とは真逆の人だ。一応下記にまとめておく。

1.何かしら個人だけのWEBサイトや情報発信ツールを持っていない。
2.1の場で、個人で情報を発信しない。
3.どんな情報であろうと、他人の場で発信してしまう。



 具体的にはどのような人か。私が思い当たるのは、1・2番ではなく、3番目の他人のWEBサイトの掲示板やブログのコメント欄などに書きこんで終わってしまう人だ。掲示板やブログのコメントというのは、それぞれのサイトの管理人が管理している。つまり相手の管理次第では、そこに書かれた文章が消去されたり、未公開にされたりすることもあるのだ。雑談程度の書き込みならいいのだが、情報を発信するには少々物足りない。

 また、ブログのコメントには、管理人のみに文章を公開する機能も備わっている、これは他人に知られたくない何かを伝えるだけなら良いのだが、情報発信には向いていない。情報の発信には特定の個人だけでなく、広く公開されてこそ発信の醍醐味がある。


 今回ネットで活躍できる人・できない人について、書きまとめていったが、今回の記事にまとめるのはここまで。他にもいろいろな要素があると思うが一番しっくりくる要素について、上記で取り上げた。

 めまぐるしく変化していく現代のIT技術やネット社会。しかし、これを機にその世界に足を踏み込んでみてはいかがだろう。気の合う仲間や、驚く情報、さまざまな事柄がネット社会では飛び交っている。それを掴むことで、新たな取り組みの可能性が大いに拓けるのだから。


『ベーシック・インカム入門』

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)ベーシック・インカム入門 (光文社新書)
(2009/02/17)
山森亮

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 日野瑛太郎さんのブログサイト『脱社畜ブログ』や著書『脱社畜の働き方』で紹介されていた本。副題は「無条件給付の基本所得を考える」。

 以前からベーシックインカムを支持している私ですが、ベーシックインカムの概要や情報について、いつもネットに記載されている情報から調べていました。以前から、「読書を通しても、ベーシックインカムについて詳しく知りたい」と思っていたので、上記の紹介文を読んでさっそく買いました。


 同志社大学の経済学部教員である山森亮さんが、ベーシックインカムの概要や歴史、注目度、問題、疑問などをさまざまな観点から書いています。山森さん自身、ベーシックインカムについては賛成の意志があり、それに伴った説明や紹介などを記しています。

 ベーシックインカムと言えば、当ブログでも度々取り上げていますが、「政府が全国民に無条件で、必要最低限の生活を送れるだけでの保障金を支給する制度」のこと。ベーシックインカムの概要については、当ブログや他サイトでも何度も紹介・説明されているので、ここでは省略。本書の特徴のみをさらりと紹介します。

 ベーシックインカムは、様々な呼び名や形がありながらも、似たような構想や実施がこれまでの歴史の中であったといいます。イギリスのスピーナムランド法、イタリアの女性の育児に対する賃金支払い運動、カナダの社会クレジット運動など、さまざま。専門家や学者の間ではミルトンフリードマンの「負の所得税」など、ベーシックインカムに近い構想があり、それらの構想についても本書で解説し、ベーシックインカムとの相違点や類似点も述べています。

 本書では、そうしたベーシックインカムにまつわる歴史や事象について述べているだけでなく、「ベーシックインカムの財源は?」「人が働くなるのでは?」といった身近な疑問に対する回答や、現在のベーシックインカムが世界でどのように注目されているかの動向についても書かれています。

 また、本書の最初の方では、日本や世界における現行の社会保障制度の問題点も指摘します。特に日本の生活保護は「セーフティネット」としての機能を果たしておらず、「自立支援」も上手く機能していないとのこと。この辺りはそのほかの先進諸国でも同様で、本書ではそうした問題から現行制度への反発が世界各地で起こっていることを紹介しています。

 経済の歴史、多くの専門家・学者らの意見を取り上げて、現行の社会はすでにベーシックインカムの導入が必要であることの重要性を説いており、それは日本においても例外ではないとしています。


 読み終えた感想ですが、タイトル通り、まさに入門書としてふさわしい本でした。

 ベーシックインカムの概要や歴史、注目度、問題、疑問などの説明は具体的に書かれており、注釈や参考資料の引用もしっかりあって、各項目について深く解説しています。

 「人が働くなるのでは?」という問いに対しては、一つのチャプター使ってまで詳しく書いており、ベーシックインカムを導入しても起こるであろう、フリーライダー問題や労働インセンティブ(費用と便益を比較する人々の意思決定や行動を変化させるような誘因)についての疑問についても取り上げ、解説しています

 とはいえ、本書でも物足りないところもあります。それは日本でのベーシックインカム導入における影響や疑問についての解説があまり書かれなかったところ。日本におけるベーシックインカムの世間の認知や導入活動がどれくらいあるかについても、具体的なことが書かれていませんでした。これが書かれていたら、日本でのベーシックインカムの認識や導入も、より身近なものになっていたと思います。

 とりあえず、読書を通じてベーシックインカムを深く知りたい方にオススメです。ベーシックインカムの他にも、福祉の理念や経済学の理論などもちょろっと解説されているので、それらについてもついでに学べて一石二鳥です。


山森亮研究室