女神の拳「西村佐知子vs霞紗玖羅(2)」

 女神の拳の漫画です。前回の続きです。技の名前は、神龍羅裂拳(しんりゅうられつけん)。

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 前回は導入部という感じの内容でしたが、今回でついに西村佐知子と霞紗玖羅との肉弾戦です。ページ数は7ページと、前回よりも1ページ減少。

 トキとラオウとの戦いのパロディですが、紗玖羅の攻撃には技を加えました。アーケード版北斗の拳と北斗無双にあるラオウの連打技「北斗羅裂拳(ほくとられつけん)」です。

 私が書いている北斗の拳のパロディ漫画には、技があまり出ていませんでした。過去の技を見ても、北斗神拳こと神龍拳の技は「北斗百裂拳(神龍百裂拳)」、南斗水鳥拳こと水龍拳には「飛燕流舞」「飛翔白麗」「断己相殺拳」、火龍拳こと南斗紅鶴拳には「血粧嘴」。ここまで書いても分かる通り、技が少ない。おまけに南斗水鳥拳こと水龍拳は3つもあるという優遇っぷり。さすがにコレはあかんと思いました。

 そこで今回の戦いにラオウの技を何か加えたいと思い、定番の連打技を入れてみることに。ラオウの連打技は北斗羅裂拳の他に、ラオウ外伝にて登場した「北斗輯連打(ほくとしゅうれんだ)」もあります。どちらを描くか考えましたが、どちらかというと北斗羅裂拳の方がポピュラーかと思い、こちらを採用。

 以前から使い始めたpaint.netのおかげで、トーン貼りがだいぶらくになりました。おかげでトーンの使用率が今まで以上にアップ。ですが、いろいろと面倒も増えてしまいました。基本的にトーン貼りはコピペ&ドラッグで済む作業なので、たいして時間はかかりません。とはいえ、ちまちまとした作業でじれったく、相変わらず用途によってWindowsのペイント・クラウドアルパカを使い分けているので、なお面倒。漫画を描くのが好きだからこそ苦にならない面もあるのですが、途中で飽きたりする原因になったりしないかが不安の種です。


 女神の拳まだまだ続きます。


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『北斗の拳 いちご味』アニメ化決定に歓喜!

『北斗の拳 いちご味』アニメ化決定!

 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!

 あの『北斗の拳 いちご味』がついにアニメ化決定に。北斗ファンなら歓喜の嵐でしょ、これは! サウザーの声がテレビアニメ版と同じく銀河万丈さんですから(『開運! なんでも鑑定団』のナレーターの方)、これは嬉しい!

 真救世主伝説シリーズではMGSシリーズのスネーク役の大塚明夫さん、北斗無双では三國無双シリーズの曹丕役の神奈延年さんと、まったく別の方が演じてきましたから。大塚明夫さんのサウザーは個人的に好きですが、帝王感を出しているのはやっぱり銀河万丈さんの御声でしょう(神奈さんは残念ながらドベ…)。

 オープニング映像はぜひ↓の内容でやってもらいたい。



勝山実さんのトークイベント「ひきこもりのようなもの」に行って来ました

 以前こちらの記事でも書きましたが、昨日ひきこもり名人こと勝山実さんとかとうちあきさんのトークイベント「ひきこもりのようなもの」に参加して来ました。今回の記事は、そのことについて書いていきます。


 場所は、神奈川県横浜市黄金町の近くにある「お店のようなもの」という変わった商店で行われました。そのお店が↓の写真。

お店のようなもの1
▲外見

お店のようなもの2
▲店内

 建物がすごい古い! 築50~60年は経っているという木造建築。1階は作業場もしくは商店で、2階は母屋という、下町などでよく見かける昔ながらの住宅構造の建物。店内はさまざまな雑貨がずらり。ゲームソフトが100円で売られていたりと、けっこう煩雑ではありましたが、いろいろなものが置いてあります。勝山さん曰く、このお店は商店というよりも、ガレージのようなフリースペースなのだとか。

 トークイベントが始まった際、参加者は15~16人ほどの方がお見えになりました。千葉県から来られた方や、このイベントのために宮城県(!)から来られた方など、さまざまな方が来ていました。参加者の大多数が勝山さんの知り合いの方でした。

 今回のイベントの主催者である勝山実さんとかとうちあきさん。今回のイベントで私は初めてかとうさんのことを知りました。彼女は今回のイベント会場である「お店のようなもの」を経営し、自分が過去に野宿しながら放浪の旅をした経験を活かして、野宿に関する書籍の出版や野宿イベントなどを企画・主催している方だそうです。野宿の達人とは思えないほど、見た目は普通の女性です。

 トークイベントは、勝山さんとかとうさんの対談というよりかは、皆でワイワイガヤガヤ楽しむ感じのちょっとした宴会みたいなものでした。対談形式で勝山さんとかとうさんが話を進める時もありましたが、基本的には自由に楽しみながら、皆で盛りあがりました。かとうさんや他の参加者の方からの持ち込みで、お酒やおつまみが配られ、それを肴に楽しみました。

 トークイベントでは、お互いのプロフィールも語りつつ、互いの人生観や将来の展望などについて話していました。個人的に興味深かったのは、かとうさんのトークでした。

 彼女は現在の現金収入として、訪問介護のお仕事を月に6回(週に1.5回)ほどやっているそうです。訪問介護といっても夜勤の介護。訪問先で仮眠を取ってもOKだそうで、それほどハードではないそうです。住居も実家を出て、現在シェアハウスを運営していて、6人での生活をしているそうです(理想として、あと2人入居者が増えると経済的に良いのだとか)。彼女も、勝山さんやphaさんと同じ基本的に「はたらきない」という考えの持ち主なので、世間一般の労働観とはゾリが合わないのだそうです。

 彼女に限らず、このイベントに来られた参加者は、世間一般の労働観が合わない方が
多いでしょう。だからこそこうしたイベントは、そうした人々にとってありがたいもの。

 勝山さんのトークでは、プロジェクターを使ってのひきこもりスラムの紹介もされました。小屋づくりのことが主で、どのように小屋を建てたか、小屋の土地はどのような場所なのかなど、プロジェクターで再生された写真を見せながら紹介してくれました。私が滞在していた時も勝山さんの小屋は拝見しましたが、その後台風で倒壊したこともあり、新しく建てたそうです。新しい小屋を建てている最中の写真もありましたが、皆思わずうなずくほどの壮観な画でした。

 その後、フリーで参加者の方々とぼちぼち会話していた際に、たまたま勝山さんと二人で会話しました。会話の内容は、やっぱり共育学舎のこと。三枝さんのことや、現在いる滞在者のこと、他の熊野の人々のことなどなど。私もFacebookでしか熊野のことは聴いてなかったのですが、勝山さんの口からより詳しいことを聴けたので、いろいろ驚いたことが多かったです。

 この時勝山さんが私に話してくれたのは、「短くてもいいから、三枝さんに会いに行ってきたらどうか」ということ。なんだかんだいって三枝さんは、私を含めた滞在者のことを気にかけている様子だとのこと。「挨拶する程度でもいいから、顔見せてあげれば三枝さんも喜ぶと思うよ」と仰っていました。私もまた機会があれば絶対行きたいと考えていたので、勝山さんからの先ほどのお言葉をもらえると嬉しく思います。勝山さん曰く、「私はぜひCHAGEAS-FANくんを、熊野に連れて行きたいとおもっているよ」とも言われるほどに。


 トークイベントそのものは2時間程度でお開きになりましたが、その後は皆さんフリーで談話していました。勝山さんは6時で退出したので、私も彼に合わせて同時刻に退出しました。勝山さんは一部の参加者の方々とともに、飲み会に行かれたそうです。私は阪東橋駅へ向かったので、途中でお別れ。

 参加して、とても良かったです。やはり熊野のことを話したり聴けたりできたのが良かったです。何より勝山さんと久しぶりにお会いできたことが、ものすごく心の励みになりました。熊野に関して、また何か事を起こせたらなあ…。


負け犬が負け犬たる本当の理由(2)

前回の記事はこちら


 負け犬が負け犬たる本当の理由。それは、彼らが精神の自由を捨ててしまったことにある。精神の自由とは、誰もが自分の心の中にある絶対の自由である。社会的自由・経済的自由・時間的自由などはなくても、この精神の自由は己が捨てない限り、決して失うことはない。いわば、数ある自由の中でも最後の砦なのである。

 具体的にどのようなものかというと、例えば英語を勉強したいと考えている人がいるとする。その人は普段は仕事が忙しくて、じっくり勉強する時間は確保できそうにない代わりに、毎日5分でもいいからリスニングのCDを聴いて勉強している。現状で何かをする自由がなくても、何かしらの策を用いて、自分の考えていることや願っていることのために行動を起こす。これが精神の自由である。

 この精神の自由は、社畜批判などでよく耳にする「奴隷の鎖自慢」に書かれているものだ。元ネタとされる文章が、下記の内容だ。

奴隷の鎖自慢 (The chain is slave's boast.)

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
 
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。
 
過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決して その精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を血祭りにあげた。
 
現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
 
リロイ・ジョーンズ(Leroi Jones) 1968年、NYハーレムにて



 過去の歴史において、奴隷となった人々が悲惨な生活を強いられていたのは言うまでもない。だが、自身の不条理な境遇に甘んじることなく、逃亡や反抗の精神を見せたのは、彼らが自分達の持つ精神の精神を捨てなかったからに他ならない。だからこそ彼らは命を賭けてでも、逃亡や反抗の精神を見出すことができたのだ。

 だが、現代社会に生きる負け犬どもは、これほど重要である精神の自由を自ら捨ててしまった。自身の不条理な境遇に不平不満を洩らしながらも、そこに甘んじてしまっている。その証拠に、彼らは何も行動を起こさないばかりか、自分らとは違うことをしている人々を小馬鹿にして、己のちっぽけな自尊心や境遇を正当化している。そんなことをしたって、何も現状が変わるはずもないのに、彼らはそれをやめようとしない。

 彼らのような負け犬は、熊野のような何かしら事を起こしている人々に対し、「お金にならないんだろ?」「どうせ就職じゃないんだろ?」という、言葉を投げかける。だが、そんな言葉を投げかけたとて、だからなんだというのだ。そんな言葉を投げかけるのは、言っている当人がそうしたことを自分の心の中で気にかけている証拠だ。他人にそんな言葉を投げかけたとて、自分の気にかけていることが解決されるわけがない。ほんの少しでもいいから行動を起こせばいいのに、「どうせ無理だ」だの「もっといろいろ考えるべきだ」だの、くだらないまでに無意味にハードルばかり上げて、行動起こす機会を自らつぶしてしまっている。

 これらを負け犬の遠吠えというのである。さらに私から言わせれば、負け犬は人間ですらない。「生命反応のあるただのタンパク質の塊」と言ってもいいくらいだ。

 漫画の話ではあるが『るろうに剣心』にて、明治政府打倒を掲げる志々雄真実の軍団に制圧された新月村という小さな村が登場する。そこでは「歯向かわなければ生きていける」という考えのもと、村人が抵抗するのを諦め、犠牲となった村人すら見捨てる描写が描かれている。彼らはもはや人間としての尊厳も何もない、ただ生きるだけの家畜同然として卑しく生きている。これも精神の自由を捨てた良い例であろう。

 るろ剣の村人にしろ、スタッフのFにしろ、負け犬はどこまでいっても負け犬。上述した奴隷と同じである。そんなにものに甘んじたところで、何も得るものがないばかりか、自分を取り巻く状況が良くなるはずがないのである。仮にあったとしても、普段から不平不満ばかり漏らして、気づかないまま終わるだろう。

 精神の自由を捨てるということは、自分の考えていることや願っていることのための情報すら、無意識にシャットアウトするようになってしまうのだ。

 これは目崎雅昭さんの『幸福途上国ニッポン』にも書かれている学習性無力感と呼ばれる理論から成る。ストレスフルな環境に置かれた状況に甘んじてしまい、そこから脱出可能な状況であっても逃げ出すことを自ら拒否してしまう心理現象である。負け犬はまさにこの理論にピッタシと当てはまっている。

 現在はネットが普及し、(信憑性や正確性は別にして)何かしらの情報は得やすい時代となったが、負け犬はそうしたことをしない。目の前に自分の欲しい情報が転がっていても、自ら無視しているのだ。こんなんで状況改善など望めるはずがないのは至極当然である。精神の自由を捨ててしまうことがいかに愚かなことかは、これだけでも充分理解できるだろう。


 数ある自由の中でも最後の砦である精神の自由。「捨てるな!」といっても、言葉があまりに抽象的過ぎてイメージしづらいものではある。だが、前述・上述した文章通り、これを捨てた負け犬は、あなたの周りにもきっといるはずであろう。それを思い出してみれば、おのずと答えは出る。私達がそうならないよう常に意識し、行動を起こすよう心がけることである。どんな小さなことでもいい。まずは動いてみなければ始まらない。これはいつの時代も変わらない、不変の真理なのだから。


負け犬が負け犬たる本当の理由(1)

 数ヵ月前、私はおよそ2年ぶりに東京しごとセンターに立ち寄った。立ち寄った理由は、しごとセンター内にあるハロワで求人を探すためだ。この時、以前親しかったしごとセンターのスタッフのF(仮名)とバッタリ出くわした。向こうも私のことを覚えていて、立ち話もなんだと、専用のブースで座って話すことになった。

 向こうは私のことをいろいろ訊いてきたのだが、ここで思わぬことが起きた。相手は私のこれまでのことを聴いているうちに、だんだん手のひらを返すように、私を小馬鹿にし始めた。

 私が茨城県の農業法人で精神がズタボロになって帰ったことでは、就労期間が短かったことに難癖をつけた。熊野の共育学舎でいろいろな活動したことについても、共育学舎が株式会社やNPO法人でないと知るや否や、「よくまあそんな所で…」というように、鼻をかけたような言い方で否定した態度ばかりとってきた。挙句の果てには、熊野で生活・活躍している人々のことを小馬鹿にする始末。

 私はこのFの態度に、心底腹が立ったし、心底見損なった。そして、「こいつがこんなくだらない負け犬だとは思わなかった!」と、心の中でうんざりした。

 私のことをどう思おうが大いに構わないが、熊野にいる人々まで小馬鹿にするのはいささかブチ切れそうになった。こんな人間がしごとセンターのような就労機関で、「社会人としてどうの…」「仕事のやりがいがどうの…」と大層にほざいているのだから、世も末である。他人や地域の事情も知らずに小馬鹿にしておいて、何が社会人だ! 少なくとも思ったことを中途半端に口にしている時点で、女々しくて情けないったらありゃしない。

 熊野のことを馬鹿にされるのは、今回が初めてではない。熊野のことが理解できないからなのか、熊野のことやそこにいる人々のことを馬鹿にする輩は多く見てきた。だが、そのいずれの輩も私から見れば、情けないほどの負け犬ばかりだった

 私が以前勤めたIT企業の同年代の同期と会った際に、熊野のことを話したら「CHAGEAS-FANはそうやって遊んでいたんだ…」と、冷やかな言い方をされたことがある。彼は負け犬と呼ぶほどチンケな人間ではなかったのだが、世の中の人々は熊野やそこで生きる人々が現実逃避した空間とでも思っているのだろうか。もし、そう思っているのならば、そいつらの思考回路の方が馬鹿げている。

 熊野で生活・活躍している人々が能天気に毎日ハッピーな生活をしていると思ったら、大間違いだ。共育学舎で数カ月滞在すれば分かるが、決して毎日がハッピーなわけがない。「○○さんの事業うまくいってないらしいよ…」「××さんのやり方じゃ、農業なんてできるわけがないのに、なぜ分からないのか…」といった、何かしらのトラブルやネガティブな話は、耳に入ってくる。共育学舎での活動をしている三枝さんですら、さまざまな問題に頭を抱えながらも、真摯に対応しているのが現状なのだ。これはどの地域社会でも、同じことだ。

 そうした三枝さんらとは裏腹に、世間では上述した負け犬が跋扈している。こんな負け犬どもを見ていると、いやでも彼らが負け犬たる本当の理由が見えてくる。次回は、その理由について詳しく述べる。


つづく