リベラリズムとリバタリアニズム

 社会においても、経済においても、人生においても、「自由」を考えるうえでリベラルズムとリバタリアニズムは絶対に外せない概念だ。今回はその2つの概念について、取り上げていく。今後私が社会・経済に関する記事を書くうえでも、非常に参考になると思うので、紹介と自分への確認の意を含めて書いておく。


 リベラリズムとリバタリアニズムは、ともに英語のlibertyから派生されてできた概念だ。ともに「自由」を基本として、さまざまな主義・主張をしているものの、内容は若干異なる。

 リベラリズムは、「人々の自由を実現するために、平等の精神を用いて、国家がさまざまな制約をかける」というもの。具体的なのものに税金がある。税金は元々、「金持ちからお金を取り、貧しい人々にそれを分配する」という平等な精神から生まれたものだ(これは近代以降の概念であり、それ以前は名目が違っていた)。日本を含め、大抵の先進国はリベラリズムに基づいた政治理念があり、社会のさまざまな物事に国家が介入する「大きな政府」となっている。

 一方、リバタリアニズムは「国家による規制の介入を極力減らし(あるいは国家そのものを否定し)、最大限の自由を享受する」というものである。自由は素晴らしく、市場経済も非常に効率的なものなのに、それが実現できないのは国家の介入のせいだ」と考え、政府の介入や法規制などを極力減らし、アダム=スミスが唱えた「見えざる手」の理論で社会や経済は上手くいくと主張する。具体的には税金の減額はもちろん、生活保護や年金などの社会保障の廃止、公的機関・組織の解体・民営化、政治家・公務員のリストラなど、国家の事業や法規制が小さい「小さな政府」を提唱する。そうすれば、最大限の自由が私たちに手に入るのだ。

 唐突だが、ここで新自由主義とリバタリアニズムの説明について述べておく。日本では、両者を同じ概念として解釈している人がいるが、それは誤りだ。新自由主義は規制緩和などの「経済的自由」は求めるが、個人のプライベートなどの「精神的自由」は自己責任の問題として見向きしない。それに対し、リバタリアニズムは「経済的な自由」だけでなく「精神的自由」も求める。この2つを求めるというところが、リバタリアニズムにおいて、他の主義・主張にない考え方だ。


 リベラリズムな考え方はほとんどの人が支持しているので理論はないと思うが、リバタリアニズムの考え方には、反対者の叫び声が響き渡るだろう。

 「ふざけるな! 市場に任せた結果が、世界恐慌のような経済参事を生みだしてしまったんだろうが!」
 「貧しい人たちがいるのに、金持ちは自分の懐を温めるばかり。彼らからより多くのお金を分配できるように寄付や慈善活動をさせるように促すべきだ!」

 仰る気持ちは分かるが、落ち着いて聴いてほしい。上記のような発言はすべてリベラルな考え方に基づいたもので、聴く人のほとんどは非の打ちどころはないと感じるだろう。しかし、これらの発言は、残念ながら実現していない。それぞれの反論については、多くの経済学者が証明している。世界恐慌といえども月日が経てば、経済情勢は徐々良い方向へ戻っていった。金持ちの寄付には節税の意図が含まれている場合があり、全てのお金が慈善活動に支払われたわけではない。また慈善活動によって、本来市場の原理で行えば純粋な利益が出たところを、損害を出したばかりか、かえって悪化するような事態を招く結果となってしまった。リベラルの考え方には、こうした落とし穴が出るリスクがある。


 リバタリアニズムの主張の中には、荒唐無稽でびっくりしてしまうようなものがあったりする。しかし、そうした主張をよく読んでみると、納得できるほどの論説がなされていて、実用性が高いものなのだ。現在は、リベラルな考え方だけでは解決することができない経済や社会の問題が多い。

 皆さんに今一度、リバタリアニズムに触れてみるのはどうだろうか。多少は好き嫌いはあると思うが、主義主張を考えるうえで絶対に役立つものなので、ぜひ触れてみてほしい。今の生活がネガティブなもので「自由が欲しい!」と叫んでいるのなら、リバタリアニズムに触れることが大きな一歩になることは間違いないはずだ。



<参考文献>
橘玲『不道徳な経済学』

<参考サイト>
Wikipedia「自由主義」

Wikipedia「リバタリアニズム」


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