自由なき無責任社会ニッポン

 先月の28日に、橘玲さんが自身のサイトで、日本に根付いている「無責任社会」についての記事が載せられた。

 日本の組織や社会には、権力構造が水面下に隠れてしまい、どこに権力の中心があるかわからない。私も以前『「責任」に関するお話』という題で、権限と責任の関係について述べた記事を書いた。権限と責任が分散してしまっては、問題が起きても誰も責任を取らないし、問題における本当の原因は何なのかがわからなくなってしまう。こうして「無責任社会」が誕生してしまう。

 橘玲さん曰く、この社会現象は日本特有の病理ではないという。

「全員一致」でしかものごとを決められないムラ社会では、責任も全員に分散されますから(一億総懺悔)、原理的に責任をとることができないのです。


 確かにこれでは問題が起きても、「私だけで決めたことではありませんから、責任取れません!」と当事者から一蹴りされてしまいそうだ。日本の企業のみならず、政治や行政の場でもこんなかんじだ。

 さらに以下の事件を例に、無責任社会がどんなものか具体的に挙げている。

ところがこのような「無責任社会」で、たまたまある特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。

このことに最初に気づいたのは政治学者の丸山真男で、大正12年に起きた皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件後に、内閣が総辞職し、警視総監から警護にあたった末端の警官までが懲戒免官となったばかりか、狙撃犯の郷里が全村をあげて「喪」に服し、彼が卒業した小学校の校長や担任の教師が辞職した例をあげています。


 この事件についてウィキぺディアで調べてみたところ、『虎の門事件』という事件であることがわかった。この事件を知って思うのだが、日本の犯罪者は世間(社会)からこんな扱いを受ける。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言わんばかりに、犯罪者の親族が嫌がらせを受け、犯罪者が愛用していたものや好きなもの(特にテレビゲームなど)がマスコミに報道される。サスペンスドラマなどでよく描かれる光景だから、イメージできる方も多いはず。

 「じゃあ無限責任の反対である有限責任ではどうなるの?」というと、上記のようなことは起きないという。これはよく聞く話ではあるが、欧米では犯罪者の親族に責任が問われたりはしない(未成年は別だが)という。これは「本人は個人として独立した存在なのだから、その関係者まで責任が問われるのはおかしい」という認識から、本人の人物まで責任の負担が起きないといわれる。本当かどうかは書籍などで調べたわけではないのでまだわからないのだが、日本もこうした有限責任なら問題対処がしやすくなるはずだ。


 最後に私から一つ。

 「「全員一致」でしかものごとを決められないムラ社会」ということは、物事を決める選択肢がないということだ。つまり自由がないということになる。物事を決める自由がないわけだから、個人の個性や意見はほとんど反映されない。これでは個人の充足感なんて、生まれるはずもなく、そこから得られる幸福感なんてからっきし出てこないだろう(この事実については、目崎雅昭さんの『幸福途上国ニッポン』を参照)。

 自由なき無責任社会。こんな状況では、日本に漂う閉塞感を拭いきれない。こうした状況を「素晴らしき日本の伝統」と言っていることがいかに愚かなことか、いい加減気づくべきだ。

 2006年のカップヌードルのCMのキャッチコピーであった「自由を掴め!」。私たちは今こそ、真の自由について考えるべきだ。


橘玲 公式サイト


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