「細く長く生きる」より「太く短く生きる」

 人生を生きる際、「細く長く生きる(好きなことを我慢しても長生きする)」のと「太く短く生きる(多少将来や健康に難はあっても自分の好きに生きる)」のでは、どちらが良い生き方だろうか。

 多くの人は「細く長く生きる」選択肢を選ぶだろう。私たちの周りには、楽しいものや美しいものにあふれているが、それと同時にいやなものや危険なものもあふれている。人間はネガティブな生き物だから、それらネガティブなものから自分の身を守ろうと必死になって細く生きる。その分長生きはできるから、人生においてさまざまなことを経験できるだろう。そうして送ってきた人生に、人々はいかなる理由があれ、それを受け入れ、最後は天寿をを全うするのだ。

 一方、「太く短く生きる」選択肢を選んだ人々はどうか。細く長く生きている人々よりも、彼らは人生を自由に謳歌している。アフリカのサバンナでのんびりと好きなだけ草を食べている草食動物のように。しかし、そのような状況下では、彼らを狙う肉食動物がいつ襲ってくるか分からない。自由に好きなことをしている分、その代償としてリスクといつも隣合わせな生活を送っている。自由にドラッグやタバコを楽しみたい人は自身の健康を害すだろうし、自由にギャンブルに興じたい人は生活費に困るだろうし、ポルノや風俗に耽る人は周囲からの偏見にさらされるだろう。

 人生において、どの生き方が正しくて、どの生き方が間違っているという客観的な規定はない。個人がどのような人生を生きようとその人の自由(勝手)であるから、他の人はそれを強制・禁止することはできない。それでも強制・禁止するのは、かつての共産主義や超国家主義の考え方だろう。たとえ、それが「よりよい万人のための社会実現であっても」だ。


 この2つの生き方について、私も長年どちらが自分にとって良い生き方なのか、頭を悩ましてきたが、あえて断言しよう。私は「太く短く生きる」を選択したい(ここから先は私の持論を踏まえたうえでの考え方・意見なので、そのことを踏まえてお読みいただけるとありがたい)。

 「細く長く生きる」というのは長生きはできるかもしれないが、単に長生きしているだけだ。そこに自身は生の充足を得られるだろうか。人間はいつ死ぬか分からない。よほど不健康な状態でない限り、医学的にも死ぬ日時は特定できない。死ぬ日が分かるというのは、生きている時間に制限が加わる半面、「いつ死ぬのか」というリスクや恐怖におびえずに済むのだ。死ぬ日が分かるというのは、なんと素晴らしいことだろう。

 しかし、多くの人々は健康である半面、自分の死ぬ日がいつになるか分からない。分からないからこそ、遺産相続や生命保険などの生死に関わる問題で頭をこじらせてしまうのだ。

 「問題を何とかしたいからこそ、いろんなことを我慢して、少しでも細く長く生きようとしているんじゃないか!」

 その反論はもっともかもしれないが、どんなに我慢して問題やリスクを抑えてもそれは0にはならない。もしあなたがそのネガティブな可能性に当たってしまったら、これまでの労力は水の泡となる。たとえ、そのネガティブな可能性に引っかからなかったとしても、そうなるか否かの間はかなり辛い時間になるだろう。これを耐えられる人はそう世の中には多くない。最悪一部の人は耐える前に「細く短く生きる」人生になるだろう。

 太く短く生きれば、自分のやりたいことが自由にできる。100%享受することはできないかもしれないが、最大限の享受は可能だ。それに人間として生まれた以上は、行く先は皆「死」である。不老不死ではないのだ。だとしたら、多少死期が早まっても良いから、自由に好きなことをしてみたい。「自由に生きたい」という願望をかなえる考え方がここに1つあるのかもしれない。

 ある意味、これはヤケクソに近い生き方だが、明確な定義がない以上、自分で好きなようにやるしかない。自分でやれるのだから、誰も文句は言わないだろう。不安や恐怖にビクビクしながら生きるよりも、「どうにでもなれ!」という勢いで生きていた方が、余計な不安がない分長生きできるかもしれない。それこそある意味、「太く長く生きる」につながるのかもしれない。


<参考>
橘玲『知的幸福の技術』
橘玲『不道徳な経済学』


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