同性愛から見る社会の寛容度

 『幸福途上国ニッポン』の著者である目崎雅昭さんのブログに、「男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの」という記事が最近アップされた。今回はその記事について取り上げる。


 目崎さんの友人にゲイの男性がいるという。記事の内容から、ゲイの友人はベルギー出身で、目崎さん曰く、見た目や話し方からゲイであることは全く想像がつかなかったという(ちなみに目崎さん自身はゲイではない)。

 記事に書かれているが、ゲイの友人は自身が同性愛者であることについて「特別なことではない」と話している。もともと人それぞれ好みが違うのだから、愛情を抱く対象も人と違っていても別におかしいことではない。単なる好みの違いだけだという。目崎さんもそのように実感したという。

 この記事では、同性愛に対して社会がどれだけ寛容であるかをもとに、その社会での個人に対する寛容度を論じている。目崎さん曰く、同性婚が認められている国々では共通点として、個人の多様な生き方に対する寛容(保証)の度合いが高いことを述べている。

同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく、男女の平等が世界でもっとも進んでいる。<男>とか<女>というカテゴリーではなく、「本人の意思」が優先され、尊重される社会なのである。それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を保証しようとする動きにも重なる。

男性と女性は、生物として大きな違いがある。そこで社会が何もしなければ、男女の機会は平等ではない。だから同じチャンスが与えられるように優遇する制度をつくることは、男女が同じ土俵に立つまでの支援にすぎない。機会の平等を保証することで、あとは本人の意思と判断に任せるのだ。結果を同じにすることとはまったく違う


 同性結婚を認めている国では、男女平等に対する機会・意識が高いという。平等と言っても、結果の平等を与えているのではなく、機会の平等を与えていることにある。つまり、個人の行動や理念のゴールを同じにするのではなく、スタートを同じにさせることである。正直これは平等よりも、「公正」「公平」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。レゴブロックに例えるなら「台座は用意したから、後は自分が持っているブロックで好きなのを作っていいよ」ということになる。


 更にもう一つ共通点があるという。それは「寛容度の高い国は生活満足度や幸福度も高い」ということ。これは、容姿や見た目など目に見えるものではなく、目に見えない意志や好みの違いを認めているからだという。

 特に目に見えない意志や好みを認めるのは難しい。これが同性愛などの少数派の意見なら、なおさら難しい。社会において、物事の本質や概念はたいてい多数決にて決まり、多数派の意見が尊重される。

 しかし、目崎さんは多数派の意見がまかりとおることについて、以下のように疑問を持つ。

あなたが人生で望むことは、すべてが多数派と同じではないだろう。いつあなたが、どこかの少数派に属しても不思議ではない。すべてが平均的な人間など存在しないからだ。

したがって少数派がリスペクトされる社会とは、多様な価値観が認められることであり、より多くの人々が、より自分の意思を実現しやすくなる。それは多数派にとっても住みやすい社会だ。それが「多様化」を推進する本当の意味であり、成熟した民主主義の姿といえる。
個人の違いが尊重される国民の、幸福度が高いのは偶然ではない


 寛容度が高い社会は、少数派の意見にも耳を傾けられる意識や考えが強いのだ。ゆえに個人の意志や主張が尊重され、その個人の満足や幸福の意識も上がるという。

 「多数派の意見が必ずしも正しいものだとは限らない」というのは、橘玲さんの超訳本『不道徳な経済学』にあるシャブ中を擁護する意見にも書かれている。以下は、その内容を一部省略して引用したもの。

 もしも大多数の人がなにかに反対しているのなら、彼らの批判とは逆に、そこに好ましいなんらかの要素があるにちがいないからだ。人類の長い歴史において、多数派の意見はたいていの場合、間違っていた。
 もしもあなたが多数派に同意していたら、その意見に反対する者を喜んで迎え入れるべきである。ジョン・スチュワート・ミル(イギリスの思想家・功利主義者)は、真理に到達するもっともよい方法は異なる意見を持つ者の話を聞くことであるとして、次のように語った。
 「あなたの立場を疑いにさらし、その疑問にこたえよ」
<橘玲『不道徳な経済学』>


 目崎さんは記事の最後の方に、日本の現状についても書いている。知っての通り、日本は同性結婚は認めていない。それどころか未婚の女性から生まれた子どもの権利も認められていないという。日本では同性結婚に限らず、多数派の意見がもっとも優先され、少数派の意見がバッサリと消されてしまう。

 なぜ日本がそのような社会である理由は多々あるが、橘玲さんの考えを借りると、日本は「伽藍」という、ひとの集団が物理的・心理的な空間に閉じられた状態で、外部から遮断された世界だからだ、という。そのような世界では、個人が自由に活動できないから、最終的にはネガティブな事柄ばかりが漂うことになる。自分がネガティブな事柄の対象にならないためにも、周り(集団)のことに常に意識を向けなくてはならない。こうして個人の意志や考えは封じられ、集団の意志や考えばかりが強制的に個人にのしかかる。個人に対して、寛容も何もない無機質な世界である。(参考:橘玲『大震災の後で人生について語るということ』


 日本は先進国の一つとはいえ、寛容の度合いはまだまだ低い。目崎さんが主張するように、日本で「人と違うことが素晴らしい」と考えられるようになれば、日本社会は寛容度が高い国になれる。「他人と同じでなければならない」と叫んで、個人の意志や主張ましてや個性を求めるなど、夢のまた夢だろう。それだけでも日本に漂う閉塞感を蹴散らすことはできるはずだ。

 日本が変わるポジティブな転機が、まさにここにある。


目崎雅昭オフィシャルサイト


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