憲法の「国民の三大義務」を自由化する

 日本の学校の授業で誰もが学んだ日本国憲法にある「国民の三大義務」。義務の内訳は、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)。

 私は最近、この三大義務の存在について疑問を持ち始めている。というのも、上記の3つはいずれも義務という形で国民を強要させている。より良い国政や社会実現のためとはいえ、義務は義務。何かしらの成果が出ているならまだしも、いずれも大した成果が出ていなかったり、何かしらの問題が生じている。そのことは現在の日本の社会情勢をみれば明らかだ。

 そのような情勢下の中で、今後も三大義務を貫き通すのは意味があることなのだろうか。私はこの疑問に対して、いっそのことを義務を否定してしまばよいと考えている。意味がないことを続けても状況は変わらないし、ましてやネガティブな状況が続いているならなおさらだ。

 否定といっても、存在そのものを抹消したいと言いたいのではない。上記の内容を自由化してしまえばよいと考えている。自由にしてしまえば、各個人が好きなように(自己責任の範疇で)上記の三大義務をやることができる。自由な情勢の下では、三大義務を行う側も行わせる側も各々の自由なやり取りや取り決めによって自発的に行われる。

 わざわざ国家が義務として強要しなくても、アダム・スミスの「見えざる手」の働きによって、それぞれの要素の質が向上していき、社会全体がよりポジティブになっていく。


 では三大義務の各要素がどれくらい自由化できるのか。ザックリと書きまとめていく。

 教育の義務は、教育を受ける子女ではなく、保護者の義務であるとされる。しかし、教育の義務を最低限こなすために用意されている公立学校はもはや人気がなく、私立学校への受験に人気がある。義務を課せられている保護者には公立小学校は、納得できるものではないのが現状だ。

 橘玲さんは私立学校の受験に人気なのは、「我が子を安全に教育を受けさせる場を求めているからだ」と述べている。教育機会の平等を実現するためにある公立学校と、市場の原理が働き、質の高い教育を提供する私立学校。前者は残念ながら、底辺校の存在などからも分かる通り、機会は平等であるものの、教育の質が高いとは言えない。

 学校制度そのものを民営化し、教育バウチャー制度などで流動的な教育カリキュラムを実現すれば、教育の自由化は実現可能である。

 勤労の義務だが、もはや労働自体不要なものだと考えている。

 産業革命以降、人々の労働は人の手から機械の手によるものに変わっていった。ブルーカラーの仕事からホワイトカラーの仕事への変貌も遂げた。そのホワイトカラーも徐々に減りつつある。以前こちらの記事で述べたが、近い将来多くの人々はマックジョブ(低賃金、待遇劣悪、マニュアルに沿うだけの単調で将来性のない仕事)に就くとされる。

 もはや労働自体が希少なものになり、完全に人の手で必要とされる労働は、クリエイティブクラスかスペシャリストの職業しかないのだ。だとしたら、労働自体も義務化される必要はなく、自由化してしまえばよい。生きていくための必要最低限のセーフティネットとしてベーシックインカムを導入すれば、働けない人(働かない人)にも対処できる。

 これで勤労も自由化できる。

 最後の納税の義務だが、これは自由化は難しい。アナルコ・キャピタリズムのように、国家そのものの存在を否定するなら実現は可能かもしれないが、外交問題や刑務所運営など民間に任せることが難しい事業などは国家でないと成り立たない可能性が大きい。

 納税の自由化は難しいが、代わりに移住の自由を認める(多用する)。こうすることで、国家や行政の間で競争原理を働かせ、国民(市民)にどの国家(行政)を選ばせるのかを自由に選択できるようにする。納税そのものの否定は難しいが、誰に(どこに)納税するかの自由は決めることは可能であろう。


 以上、かなりザックリと書いてきたが、教育と勤労については自由化できる可能が極めて高い。憲法に明記されている事柄もいくつか自由化されれば、より自由な社会への実現が可能になるはずだ。



<参考>
Wikipedia「義務」
ミルトン・フリードマン『選択への自由』
橘玲『知的幸福の技術』


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コメント

No title

「勤労の義務」は勤労を強制する意味ではなく、意図的に勤労しない者には生活保護等の社会権は及ばないという意味です。

No title

>革命烈士さん
コメントありがとうございます。
勤労の義務に、「意図的に勤労しない者には生活保護等の社会権は及ばない」という意味があったのは驚きました。
Wikipediaにも他の解釈が載っているので、参考にします。
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