ジコチューと責任の関係

 橘玲さんの公式サイト記載の文章で、大変興味深い文章がある。「ジコチューはどこで失敗するのか?」という記事で、田中真紀子文部科学相の新設大学認定の無責任な発言から、ジコチューな人間がリスクを正しく評価できないという理論について述べている。

 「独断でものごとを決め、ひとの意見に耳を貸さず、自分の失敗を反省せず、部下に責任を押しつける」という、ジコチューな人間の典型的な行動に、憤りを感じる人もいるだろう。特に無責任という態度は、近代の自由の概念において、「責任のないところに自由はない」という近代以降の自由の概念の基本的な事柄をまったく理解できない(理解してない)という証拠である。自由を考える人や求めている人にとって、不快極まりない言動である。

私たちは、自分の言動を客観的に見ることができません。しかしそれでも、相手がどう思うだろうかとか、世間から批判されないだろうかとか、あれこれ思い悩みます。この仮想体験(シミュレーション)が、こころの機能です。

このシミュレーションがあまりに過剰だと、考えすぎてなにも行動できなくなり、引きこもりやうつ病になってしまいます。その反対にシミュレーション機能が働かないと、相手の反応をまったく予測せずに行動してしまいます。“暴走大臣”はこの典型です。



 確かに私たちは自分の言動を客観的に見ることができない。とはいえ、生きていくうえで何か問題に直面したり、名に物事を始めたり行っている中で、「もっと物事を良くすることはできないか?」「今の状況を打開できる手はないか?」と自分自身に向けた問題解決や行動意識が高まる。人がジコチューになるか否かについては、そうした着眼点にいかに気づくかが大きなポイントになる。

ただしこの欠点は、他人がどれほど注意しても直りません。主観的には暴走しているつもりなどまったくなく、自分は正しいことをしているのに、周囲の無理解によって理不尽に批判されていると感じられるからです。その意味では、「いい宣伝になった」という発言は彼女の素直な気持ちを表わしています。



 橘玲さんの言うように、ジコチューな人格というのは他人がとやかく言って改善できるものではない。当人の生まれながらの性格という要因もあるが、少しでも改善したいならば、やはり本人の意識や考え方によるところが大きいだろう。それに当人はリスクに対する正しい評価ができないという非常に恐ろしい要素がある。

 リスクを正しく評価できないということは、そのリスクに対する自己責任やコストの計算ができないということであるから、問題が起きれば事態の収拾がつきづらくなるのは明白である。


 「やればできる」という自己啓発などで、ジコチューを改善できるのはほぼ不可能だ(そんなことが可能ならば、ジコチューに対する問題はとっくのとうに改善されている)。では私たちにとって、大切なことはいったい何なのか?

 申し訳ないが、私は聖職者でも教育者でもないため、確実にコレといえることはない。ただ、必要最低限言えることは、普段から読書などでさまざまな知識を身につけ、自分に関わるリスクや問題に備え、対処することだ。そうしたことを何一つしようとせず、稼いだ金を無駄に浪費し、その責任を金持ちバッシングをもって転嫁しようなどもってのほかである。

 責任という事実を認識したうえで、行動すればかなり自分の言動に対する客観的な評価ができるようになる。「責任のないところに自由はない」という事実に変わりはないのだから、思いきって意識して行動してみると、無意味な不安や嫉妬は徐々になくなっていくだろう。何より私がそれを身をもって実践してみたのだから。


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