労働に「自己実現」や「やりがい」は求めない

 就活をやっていると、セミナーやら説明会やらで、労働(仕事)に対して自己実現ややりがいといった話題が出てくる。就活生の中にはこうした話題について、強く興味を持っている人もいるという。

 上記のような話題を聴くたびに、私は心の中で「はぁ…」とネガティブな溜め息をつく。はっきり言って、私自身は労働に自己実現ややりがいといった概念は求めていない

 そもそも私が労働に従事しているのは単純にカネのためであって、自己実現ややりがいなんてものはハナっから望んでいない。「この仕事なら、自分でも難なくできそうかな…」という労働を選んで、それを淡々とこなしているに過ぎない。

 私からしてみたら、「労働における自己実現ややりがいというものは働いてみてから分かるものだ」と考えている。実際に従事したわけでもないのに、働く前から自己実現ややりがいというものをいくら考えても、分かるはずがないのだ。「そんなに自己実現ややりがいを強烈に感じられるのなら、まずはやらせてくれよ!」というのが、正直な本音だ。

 それに加え、自己実現ややりがいという概念自体が抽象的で分かりづらいものだ。セミナーやら説明会やらで言われてもピンとこないことがほとんど(言われても、こちらとしては適当に返事するしかない)。それに自己実現ややりがいなんてものは、労働以外の物事でいくらでも見つけられる。

 私の場合は趣味であるテレビゲームのレビュー執筆やブログ・Twitterの記事投稿、写真撮影など、いくらでもある。これらの物事はやっているからといってカネはもらえないが、「好き」という感情で自発的にやっていることなのだから、楽しいし苦じゃない(カネはもらえたらもらえたで嬉しいのだが、カネをもらうことで逆に「労働」と化してしまい、つまらなくなる可能性がある)。

 上記のような言うと「おまえはなんてだらしない奴だ!」とか罵られそうだが、興味がないものを無理やり押し付けられるこちらとしては不快極まりないのだ。そもそも労働に対してどう思おうが、個人の自由であるのだから、私自身は他者が上記のことを熱心にやっても否定したり阻止したりしない。労働によって自己実現ややりがいが見つけられた場合でも、それはそれで個人が欲する物事の一つの実現方法であるのだから、悪いことでも何でもない。

 しかし、「それしかない!」「それ以外は認めない!」というように、考え方や価値観を固定して、他者に押し付けようとするのはまったく馬鹿げている。なにより、それだとやる側もやらされる側も面白くないし、苦痛なだけだ。訳の分からない大義名分に振り回されて、お互いにネガティブになっていては本末転倒である。


 私自身が労働で自己実現ややりがいを見つけたとしても、それはあくまで労働に従事していく中で、カネに次ぐ二の次三の次の要素として見つけたこと。ハナっから求めていないのだから、「そういうもんだ」というふうに軽く考えている。

 とはいえ、私は精神疾患持ちで世俗の物事に馴染めない人間。そんな私では、労働で自己実現ややりがいを見つける前に、心身を病んで燃え尽きてしまう。そうなってもいいように、その労働で適当にカネを稼いだら、さっさとトンズラして、後は悠々自適な生活を送りたいと考えている。そのための計画も現在模索中である。

 私が労働からトンズラする頃には、自己実現ややりがいといった小難しいことを考えなくても、適当に労働に従事して、あとはその給金かベーシックインカムで適度な生活を送れるような世の中になれることを願っている(夢物語で終わる可能性は大きいだろうが、願ってやまない)。


<参考文献>
中島義道『働くことがイヤな人のための本』

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