「勝ち組」なら、何やってもいいのか?

 ここ最近考えていることを、さらっと書いていく。


 「格差社会」という言葉が流行る昨今、勝ち組・負け組という人々の区別の概念が出てきた。「世の中、勝ち組にならなければ生きていけない!」「負け組は一生搾取される!」。こんな叫びが格差社会とされる現在では、マスコミなどでよく耳にする言葉だ。

 ただ、私はこの概念について、物申したい。

 「勝ち組なら、何やってもいいのか?」

 と。勝ち組という概念について、いまいちピンとこないだが、巷で言われている勝ち組の概念は、「勝ち組になれば何やってもいい」という変な特権意識があるように思える。これがはっきり言って気持ち悪い。

 勝ち組という概念について、他者がどう思おうがどうしようが、それは個人の自由である。ただし、勝ち組という概念に変な特権意識を持って、「何をやってもいい」という優越感が芽生えるのは、社会において危険なことではないか。

 資本主義社会である以上、競争原理は社会で働いている。そこに勝敗の差が出てしまうのは当然であろう。この事実について、異論はない。ただし、その勝敗の実績は永続的に固定されている訳ではないし、勝敗の基準やルールも個人が関与する各々の分野で状況は変わってくる。勝ち組の特権意識は、こうした事情や背景を無視している。「1度勝ち組になったら、それでお終い。後は何をせずとも悠々自適な特権ライフが待っている」と言わんばかりの奢りっぷりだ。

 当たり前だが、勝敗は変動するのだ。輝かしい好成績を打ち出しているスポーツ選手でも、負けるときがあるし、現役時代は連勝を貫くことができても、いずれは引退で一線を退くことになる。世の中の勝ち組と呼ばれる概念の生き方や社会的地位を得ても、いずれはそれを降りることになる日が来ることは大いにあるのだ。

 勘違いされないように書いておくと、私は勝ち組と呼ばれる人々や概念について、妬んでいるのではない。上記で述べた変な特権意識から来る「勝ち組の自由や平等は保障しても、負け組の自由や平等は認めない」といった、勝手な価値観の押しつけや閉塞感を生みだす考え方が、社会にとって好ましくないと言いたいだけだ。

 あまりにいき過ぎた特権意識は、人々を惑わし、そこから出るネガティブな物事が社会的弱者に降りかかってくる。それどころか、特権意識が災いを成して、犯罪や倫理性に反する問題までも誘発する恐れがある。「一攫千金狙って、勝ち組になりましょう!」という詐欺商売は、まさにその典型だろう。

 また、世間で言われている勝ち組というのは、社会的にも経済的にも高い地位にいる人々を指していることが多いが、彼らはそれ相応のリスクを背負って、その地位にいることを忘れてはならない。これは経営者が特にそうだが、会社の責任は大きくなる。その責任を背負って、経営者は仕事をしている。当然ながら、倒産などに陥ったらその責任は全部自分に降りかかってくる。そうしたリスクと引き換えに、莫大なカネや名誉を手に入れているのだ。

 それと根本的なことを話すと、そもそも勝ち組という概念に相当する人間がどのようなものなのか、明確な基準がない。大抵はお金持ちや何らかの社会的地位の高い人がそれに該当するのだろうが、明確な基準がない以上、勝ち組という概念を血眼になって叫んだところで、なす術がない(「勝ち組って誰?」という疑問は答えが出づらいので、申し訳ないがここでの説明は省かせていただく)。

 「負け組だから」といって何もかも悲観的になるのも、もったいない話ではある。世の中の生きづらさや価値観について、馴染めない人・合わない人は昔からいる。現在はインターネットの普及により、そうした人々同士が集って、自分たちが生きやすい活動やシステム造りを実践する人々も増えてきた。そうした事柄をまとめた書籍も販売されている。勝ち組だろうと負け組であろうと、さまざまな生き方や価値観があることを知り、そうした物事にまずは触れてみるだけでも、少しは生きやすさが変わるではないか。


 「格差社会」という言葉でネガティブなイメージがある以上、じっとしてられないというのが現代社会に生きる人々の本音であろう。しかし、だからといって勝ち組・負け組の理論を叫んで、勝ち組になることばかりを目指すというのはいかがなものか。

 たとえそうした概念があっても、何かしら動いている人々というのは探せば、けっこういるのだ。そうした人々とコンタクト取ったりしながら、自分なりに動いて、自分なりの生き方を模索した方が建設的(ポジティブ)であろう。私自身含めて、まずはそうした模索を着々と進めていきたい。


スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する