なぜ特権意識は生まれるのか?

 以前こちらの記事で、勝ち組という価値観に特権意識が関係していることについて書いた。ここでいう特権意識とは、主にある特定の概念に属する者がそのことに優越感を覚え、傲慢な態度や言動を取ることである。

 こうした特権意識は、多くの人々に魅力的である一方、妬みや恨みの対象にもなる。そうした特権意識を持つ(背負う)ことによるさまざまなリスクもあるため、社会で容易に煽られるべきではない。

 しかし、特権意識は現代社会で生まれてしまう。この特権意識は、勝ち組の概念のみならず、これまでの人類の歴史においても幾度となく栄枯盛衰を繰り返している。そうした歴史があるのに、なぜ特権意識は今なお生まれるのだろうか? この疑問について、さまざまな観点から私なりに考察してみようと思う。


 まず、特権意識が生まれる要因には、社会的要因経済的要因があることは、容易に察しがつく。

 後者の経済的要因については、「金さえあれば何でもできる」といった拝金主義などにあるように、お金によって個人の社会的影響力を強大にすることに大きくすることができる。

 以前私が述べた勝ち組という価値観は、不景気によって金銭の重要性が高まった際に、「より金銭を自由に使える者=より金銭を多く獲得できる者」が、現代社会しいては競争社会で生き残ることができる存在としてもてはやされた結果である。社会における経済停滞がひどくなれば、お金がある人の優位性はより強まるし、そうした人々が社会において強い影響力が出ることは言うまでもない。そうした人々が、徐々に特権意識を持つようになるのも自然な流れであろう(個人の性格によっては、そうした特権意識に流されない人もいるかもしれないが)。

 このことは日本の歴史においても、数多くの事例がある。平安時代では、数多くの荘園(他の貴族から寄進された農地を私有地とし、朝廷への税を払わずに収入をすべて自分のものにすることができた土地)を持った藤原氏が、当時の朝廷以上に経済的な優位性を持ったことで、政権を握ることができた。明治時代では、多額の税金を納めている者ではあれば、華族(公家・大名の家系出身の者がなれる特権を伴う社会的身分)になれることができた(当初は不可だったが、1869年に発令された華族令によって可能となった)。

 では前者の社会的要因はどうであろうか。これは先ほど述べた経済的要因にも重複する話なのだが、説明に当たってまずは社会学の理論を用いながら述べていく。

 一つは準拠集団と呼ばれる理論で、これは自分が持つ欲求のモデルとなっている対象の人物のことを言う。

 先ほどの勝ち組という概念はまさにそうで、高い金銭的な欲求や社会的な身分を望む人々にとって、勝ち組とはそれらの欲求を充分に満たしているモデルなのである。昨今のような不景気が続く情勢ともなれば、その理想像は大きくなり、人々はそれを自分の状況や身分を比較しながら、一喜一憂する。

 この比較が社会で多用され、影響力が強くなるほど、その欲求を満たしている人物の幸福度は大きくなる。そればかりか、勝ち組には「一度なればあとは悠々自適」というような社会的な優位性まであるのだから、特権意識が生まれるのも無理はない。

 さらにこの勝ち組という概念で働いているのが、ラベリング理論の存在だ。これはラベルという言葉と同じで、別の言葉で言いかえると「レッテル貼り」の理論だ。人々に善し悪しの評価(レッテル貼り)を続けると、当人はそれを信じ込んでしまい、その通りの人間に出来上がってしまう。

 例えば、「おまえは負け組だから、何やっても幸せになれないんだ」というレッテル貼りが続けば、言われ続けた当人は「俺は負け組なんだ」と信じ込んでしまい、不幸に感じる。逆に「勝ち組だから、何やっても問題ない」というレッテル貼りの場合は、当人は「俺は勝ち組なんだぞ!」と信じ込み、さまざまな行動に手を出すことになる。

 ラベリングの理論は、良い方向にも悪い方向にも働くことができるため、必ずしもすべてに悪影響を与えるわけでない。現に、自己啓発セミナーなどで「あなたはやればできる!」と大声で連呼して、自分自身を鼓舞する講師や受講生は、この理論によって自身の能力を高めようとしているのである。

 しかし、この理論は普通に考えてみれば気持ち悪い。悪いラベリングは誰だって嫌なものだが、良いラベリングは逆に不自然な感じがして気持ち悪い(新興宗教のような類さえ感じる)。そもそも、これだけでは特権意識を生み出されるまではいかない(こんなことで生まれるのならば、皆が皆特権意識を持っている)。

 これについては、橘玲さんの著書『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』で答えが書かれている。私たちに良いラベリングがなかなか作用されないのは、ラベリング自体が悪いわけではなく、自分自身の能力がすでに遺伝的に決められているからであり、ラベリングでむやみに能力を伸ばそうとしても限界があるからだ。自己啓発などの良いラベリングが本当に作用されるのならば、私たちはオリンピック選手のような身体能力や東大生のような明晰の頭脳を持てるはずだが、そんなことは決してない。自分の能力が決められているからだ。

 これを勝ち組という概念に置き換えて話すと、勝ち組なるための自己啓発や勝ち組としての素質や能力をラベリングで飛躍させることは、不可能と言うことになる。

 さらに突き詰めると、根本的な相違に気がつく。そもそも勝ち組というラベリング自体が個人が出した結果(実績)によってつけられるものであるということだ。勝ち組という概念でいうと、彼らは充分な収入とそれに見合った生活、さらには周囲から認められる社会的信用がある。おまけにそれらは自分の行った行動や努力の結果の賜物であると認識される。そうした要素がラベリングとなって、個人に作用し、最終的に特権意識となっていく。

 これは学歴差別についても同じことが言える。学歴差別が人道的に悪いことじゃないという擁護意見があるのは、学歴という結果は個人の努力によって勝ち取ったものだと考えられているからだ。

 そうした結果がまったくない個人に、いくら良いラベリングをしたところで、結果や成果のある勝ち組のラベリングにはかなわないのだ。結果の内容や実績の有無で勝負されては、当然それらの要素を持つ者に軍配が上がってしまう。これは強固な強みとなる。


 こうした特権意識というのは、無くなることは決してない。誰だって良いようにもてはやされたいし、注目を浴びたいという欲望がある。それを実現しようとするのは決して悪いことだとは言えない。

 しかし、だからといってそれが特権意識として、何やってもいいという理由にはならない。特権意識の背景で、それを望むあまり詐欺商法に引っかかったり、傲慢な態度で他人を不幸にしてしまっては、元も子もないからだ。

 社会におけるラベリングや特権というのは、そうしたリスクがある。そうしたリスクをしっかり考慮して行動しないと思わぬしっぺ返しを喰らうことは間違いない。我々は、そうしたリスクがある特権意識に惑わされぬよう、生きていく必要がある。それを忘れてはならない。


<参考文献>
森下伸也『社会学がわかる事典』
橘玲『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』


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