努力の評価って本当に必要?

 日本社会では、努力した個人を優遇する見方が多い。では、努力とは具体的にどのようなものなか? ここではAさん・Bさんという2人の事例で見てみよう。

 Aさんはそこそこ働くサラリーマンだが、成績はダントツに良い。これといった努力をしなくても、自分の才能でやっていける。一方、Bさんはがむしゃらに働くサラリーマンだが、成績は中の下。毎日残業続きでも、仕事をしているがなかなかイマイチ。

 さて、読者のみなさんはどちらを評価するか? 「努力」という観点から見れば、おそらくBさんだろう。Bさんのような働きぶりには、お涙ちょうだいのような人情味を感じる人もいるだろう。

 しかし、市場原理・競争主義の人から見れば、間違いなくAさんを選ぶ。効率性や生産性を考えたら、間違いなくAさんを欲しがる。

 そうなると、「Bさんの努力はいったい何だったのだろうか?」と疑問に思うだろう。ある人は差別だとして、Aさんの報酬の一部をBさんに渡すことを強要するだろう。Bさんの努力が足りないとして、より一層の努力を強いさせる人もいるだろう。

 では、今回の場合、努力という概念をどう活用すべきなのか? ここでかなり乱暴にはなるが、私なりの意見を出したいと思う。

 いっそのこと努力なんて度外視して、各々が置かれた境遇のみで判断すればいい。

 個人の境遇を見るということは、それが必ずしも個人のコントロールできる範疇を越えた変更不可能な要素だということだ。つまり「Bさんは運悪く、適材適所にかなっていなかっただけ」と言える。努力する場所や時期というのは本人次第のところもあるのだが、周囲の環境がからむことも非常に大きい。そこを無視せずに、Bさんに合った適材適所の仕事や生き方を模索できるようにすればいい。

 それを可能にするのは何か? 私はベーシックインカムが一番理想的だと思っている。それがかなえば、Aさんも今以上に実力が発揮できる(努力できる)場所を探ししてもいいし、仕事を降りて隠遁な日々を送ってもいい。

 そうした世の中があっても大いに良いのではないか。特にこの日本という国では、なおさらだ。そんなことを風呂に入っている時にふと思った。


<参考文献>
pha『ニートの歩き方』
日野瑛太郎『脱社畜の働き方』


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