本当の社会の敵とは「取るに足らない輩」である

 年々動き続いている社会。そうした変化に富んでいると、社会情勢の不満から「社会の敵」という概念が出てくる。

 社会の敵というと、多くの人は「ひとかどの人物」を思い出すだろう。遠い異国の地の独裁者、絵に描いたようなお金持ち、警察を翻弄するギャングスター、社会に馴染んでいないニート・フリーター・ひきこもり、などなど。こうした人々を思い浮かべるのではないだろう。

 だが、はたしてそうであろうか? 私が今回言いたいのは、本当の社会の敵とは「ひとかどの人物」ではなく「取るに足らない輩」だ、ということだ。

 なぜ「取るに足らない輩」が社会の敵なのか? 私の顔見知りの人間で、この「取るに足らない輩」が実際にいる。そのエピソードを交えて、説明しよう。


 その「取るに足らない人物」を、ここではAと名づけることにする。

 Aは社会保障の不正受給者だ。うつ病で障害者手帳と障害者年金をもらっているが、本人は処方された薬を服用しようとしない。「1万円もらえないかな」としたり顔で障害者年金にたかり、そのくせ「俺は弱い人間じゃない」と言い張る。

 あらかじめ断っておくと、私は社会保障の不正受給そのものは大した問題ではないと考えている。ここで詳細を語るのは省くが、不正受給とは水面下で行われているフリーライダー問題であり、それは問題識別の白黒がつきにくい。それだけでは批判する理由に当たらないし、それだけで「社会の敵」だと指摘する気は毛頭ない。

 では、なぜAは社会の敵なのか? それはAのSNSで書かれたとある文章からなる。まずはその文章を読んでもらいたい。個人名などのプライバシーに関する事柄は、伏せて掲載する。

神奈川県某所にて某大手企業元社員のBさんと喫茶店での話しをしてて

少し離れたカウンターの奥にいる店員に向かって
A「あのwifi使えますか?}
店員「そのまま使えますよ」

パソコンをいじるがwifi、も10個ぐらいとびかってるし色々やったが繋がらない

A「でね、Bさん××だったら繋がるようなにか気を使ってくれるわけですよ」
B「まぁ店員さんも忙しいから」
A「ここの店を悪く言うわけじゃないけど、お客さんの満足度を下げてでも他のお客さんを入れることの方が大切で、しかももし客が少なくて余裕があったとしても繋がるようにはきっとしてくれないわけですよ」
B「まぁそうだろね」
A「Bさんはどっちの店がいいんですか!」

Bさんは3時間店にいたが結局なにも注文せず・

帰り道にて
呼び込み店員、3つの店からたてつづきに3人
「居酒屋いかがすかー?」
「居酒屋いかがすかー?」
「居酒屋いかがすかー?」

A「でねBさん、この3人は何の役にもたってないわけですよ、入りたかったらはいるし、必要なかったら入らないし、この3人はなにを考えてその仕事をしてるんでしょうか!」
B「でも多少売上が上がるからいるわけで」
A「たぶん3つの店とも呼び込みをやめたら結局売上変わらないわけで、1つの店が呼び込みやるともう2つの店は呼び込みをやらざるおえない」
3つの店とも呼び込みをやると人件費だけ無駄にかかってくる。
はぁなんとも・・・



 まずこの文章では、Aは何を言いたいのかが分からない。おそらくAは経営のことについて語っているのだろうが、どれもBさんを言い負かすような誹謗ばかりで、前向きな意見が何もない。何かしら問題提起を指摘するのであるならば、その問題に対する解決案もしくは建設的な言葉ぐらいは、しっかりと述べるべきであろう

 そうしたものがない上記の文章には、誹謗に近い問題点ばかり並べて、「これが経営ってもんなんだよ、分かってないな!」とBさんを見下しているだけだ。

 次に問題なのは、居酒屋の呼び込みに対して「この3人はなにを考えてその仕事をしてるんでしょうか!」と言っている箇所だ。ここで注目してもらいたいのは、なぜAは呼び込みという行為を問題としているのではなく、呼び込みをしている店員を問題視している点だ。

 (私は経験が無いので詳しくは語れないが)居酒屋の呼び込みは大抵アルバイトの店員がやっていると思われる。彼らは店側の指示で、言われた通りの仕事(目の前の仕事)をこなしているだけに過ぎない。たとえ呼び込みという行為が無駄であっても、店側の指示である以上辞めるわけにはいかないし、無駄だと断れば別の店員が代わりにやるだけだ。

 呼び込みという行為が誰かの問題であるのならば、それを指示している店側つまり企業側(雇い主側)の問題である。彼らに決定の権限があり、責任があるのである。Aも経営を語るくらいなら、こうした問題の責任の所在くらいは判別できるはずであろう。それなのに、問題の責任を立場の弱い店員(しかもアルバイト)に押しつけようとしている。

 つまり、Aが立場の弱い人間に問題の責任を押し付けていることが問題なのだ。問題解決のために責任の所在を明確に認識したうえで、批判しているのならまだいい。そうではなく、立場の弱い人間に責任の所在を押し付けて、「おまえらのやっていることは無駄なんだよ、分かってんのか!」と見下しているのである。

 SNSの文章から、Aが「社会の敵」であることは述べてきたが、最初に書いたAのことを思い出してもらいたい。

 Aは「俺は弱い人間じゃない」として、自分は強い人間だと言い張った。それについては問題ではない。問題なのは、社会的弱者の救済のために敷かれた社会保障にしたり顔でたかって、それを公言しているということだ。己自身のことをどう述べようが、大いに結構。だが、弱者救済支援にたかりながら強者を言い張るのは、矛盾以外の何ものでもない。それだけでは飽き足らず、ろくな解決案もない自論でBさんという目の前の人間を見下し、問題の所在を立場の弱い人間に押しつける。

 弱者を偽りながら社会保障にたかり、問題の責任を立場の弱い人間に押しつけ、自分は強者として目の前の人間を見下す。「他人のやることなすことは認めず、己のやることなすことは認めてもらおう」という魂胆が丸見えだ。はっきり言おう。下劣極まりないのである。

 こうした輩は、1%のひとかどの人物(強者)ではなく、99%の立場の弱い人間(弱者)の中にまぎれている。そこで自分勝手な振る舞いをふりかざし、己の立場が危うくなれば「木を隠すなら森」と言わんばかりに、別の場所へ逃げ出すのである。自分の手は汚さず、他者に汚れ仕事をやらす。それは表ざたになることなく、水面下で行われる。

 そうした現状にたかっているからこそ、Aのような輩が「取るに足らない輩」の所以なのである。


 これまで「社会の敵」とされてきた「ひとかどの人物」いうのは、おとぎ話の恐怖の大魔王のように、社会の外部からやってきて、社会を破壊する者だとされてきた。しかし、「取るに足らない輩」は社会の内部にいて、社会を腐敗させていくという真逆の存在である。社会とは外から破壊されるのではなく、内から腐敗されていくのである。私達の敵は、私達のすぐそばにいるのである

 だが、そうした振る舞いもそう長くはないだろう。いくら水面下とはいえ、やり過ぎた行為は徐々に度を越して目立ってくるものだ。その時こそ、「ひとかどの人物」達による革命という名の反撃が起こるだろう。

 こうした「取るに足らない輩」は表立った行動をしない以上、そう大げさなことはしない。彼らにひと泡吹かせたいと考えるなら、我々が(良い意味で)「ひとかどの人物」になればいい。そうすれば、「取るに足らない輩」の居場所は自然に淘汰されていくだろう。小さな反撃だが、最終的にそれは大きな反撃へと変化する。その時こそ、彼らが恐れる倍返しが実現できるのだ。


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