負け犬が負け犬たる本当の理由(2)

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 負け犬が負け犬たる本当の理由。それは、彼らが精神の自由を捨ててしまったことにある。精神の自由とは、誰もが自分の心の中にある絶対の自由である。社会的自由・経済的自由・時間的自由などはなくても、この精神の自由は己が捨てない限り、決して失うことはない。いわば、数ある自由の中でも最後の砦なのである。

 具体的にどのようなものかというと、例えば英語を勉強したいと考えている人がいるとする。その人は普段は仕事が忙しくて、じっくり勉強する時間は確保できそうにない代わりに、毎日5分でもいいからリスニングのCDを聴いて勉強している。現状で何かをする自由がなくても、何かしらの策を用いて、自分の考えていることや願っていることのために行動を起こす。これが精神の自由である。

 この精神の自由は、社畜批判などでよく耳にする「奴隷の鎖自慢」に書かれているものだ。元ネタとされる文章が、下記の内容だ。

奴隷の鎖自慢 (The chain is slave's boast.)

奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
 
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。
 
過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、やむなく奴隷に身を落とした。彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、奴隷になっても決して その精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、肥え太った主人を血祭りにあげた。
 
現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
 
リロイ・ジョーンズ(Leroi Jones) 1968年、NYハーレムにて



 過去の歴史において、奴隷となった人々が悲惨な生活を強いられていたのは言うまでもない。だが、自身の不条理な境遇に甘んじることなく、逃亡や反抗の精神を見せたのは、彼らが自分達の持つ精神の精神を捨てなかったからに他ならない。だからこそ彼らは命を賭けてでも、逃亡や反抗の精神を見出すことができたのだ。

 だが、現代社会に生きる負け犬どもは、これほど重要である精神の自由を自ら捨ててしまった。自身の不条理な境遇に不平不満を洩らしながらも、そこに甘んじてしまっている。その証拠に、彼らは何も行動を起こさないばかりか、自分らとは違うことをしている人々を小馬鹿にして、己のちっぽけな自尊心や境遇を正当化している。そんなことをしたって、何も現状が変わるはずもないのに、彼らはそれをやめようとしない。

 彼らのような負け犬は、熊野のような何かしら事を起こしている人々に対し、「お金にならないんだろ?」「どうせ就職じゃないんだろ?」という、言葉を投げかける。だが、そんな言葉を投げかけたとて、だからなんだというのだ。そんな言葉を投げかけるのは、言っている当人がそうしたことを自分の心の中で気にかけている証拠だ。他人にそんな言葉を投げかけたとて、自分の気にかけていることが解決されるわけがない。ほんの少しでもいいから行動を起こせばいいのに、「どうせ無理だ」だの「もっといろいろ考えるべきだ」だの、くだらないまでに無意味にハードルばかり上げて、行動起こす機会を自らつぶしてしまっている。

 これらを負け犬の遠吠えというのである。さらに私から言わせれば、負け犬は人間ですらない。「生命反応のあるただのタンパク質の塊」と言ってもいいくらいだ。

 漫画の話ではあるが『るろうに剣心』にて、明治政府打倒を掲げる志々雄真実の軍団に制圧された新月村という小さな村が登場する。そこでは「歯向かわなければ生きていける」という考えのもと、村人が抵抗するのを諦め、犠牲となった村人すら見捨てる描写が描かれている。彼らはもはや人間としての尊厳も何もない、ただ生きるだけの家畜同然として卑しく生きている。これも精神の自由を捨てた良い例であろう。

 るろ剣の村人にしろ、スタッフのFにしろ、負け犬はどこまでいっても負け犬。上述した奴隷と同じである。そんなにものに甘んじたところで、何も得るものがないばかりか、自分を取り巻く状況が良くなるはずがないのである。仮にあったとしても、普段から不平不満ばかり漏らして、気づかないまま終わるだろう。

 精神の自由を捨てるということは、自分の考えていることや願っていることのための情報すら、無意識にシャットアウトするようになってしまうのだ。

 これは目崎雅昭さんの『幸福途上国ニッポン』にも書かれている学習性無力感と呼ばれる理論から成る。ストレスフルな環境に置かれた状況に甘んじてしまい、そこから脱出可能な状況であっても逃げ出すことを自ら拒否してしまう心理現象である。負け犬はまさにこの理論にピッタシと当てはまっている。

 現在はネットが普及し、(信憑性や正確性は別にして)何かしらの情報は得やすい時代となったが、負け犬はそうしたことをしない。目の前に自分の欲しい情報が転がっていても、自ら無視しているのだ。こんなんで状況改善など望めるはずがないのは至極当然である。精神の自由を捨ててしまうことがいかに愚かなことかは、これだけでも充分理解できるだろう。


 数ある自由の中でも最後の砦である精神の自由。「捨てるな!」といっても、言葉があまりに抽象的過ぎてイメージしづらいものではある。だが、前述・上述した文章通り、これを捨てた負け犬は、あなたの周りにもきっといるはずであろう。それを思い出してみれば、おのずと答えは出る。私達がそうならないよう常に意識し、行動を起こすよう心がけることである。どんな小さなことでもいい。まずは動いてみなければ始まらない。これはいつの時代も変わらない、不変の真理なのだから。


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