机上の空論は「やめにしないか?」

 今月の1日に、高校時代の友人であるM(仮名)から、食事の誘いがあり、一緒に会うことになった。それなりに楽しい時間ではあったが、ちょっとよろしくないことがあった。

 Mは私のブログをよく読んでいて、以前書いた負け犬の記事について談話することになった。その際、Mが社会観や人生観のようなものをくどくど語り出した。Mはそうした話題が好きで、よく他の友人と酒の場で語り合っているらしい。

 数分経ったところで、私は「そんな話はやめにしないか?」とMに切り出した。

 切り出した理由は他でもない。Mの話が、高みの見物気取りの机上の空論に過ぎないからだ。Mには悪いが、この手の話を聴くたびにうんざりしていた。Mとはこういう会話を何度もしたことがある。今まではそれなりに聴いていたが、今回はやめるよう正直に切り出すことにした。

 Mの言うことは「社会はどうあるべきか?」「人生はかくあるべきか?」といった哲学的な堅い話なのだが、結局どれも机上の空論の域を出ていないのだ。「社会は○○だ」「人生は○○だ」と論理的(?)な答えを出すものの、それ以上の先がない。すなわち、そうした答えが出たとて「そこから先を具体的にどうするか?」という具体的な策がまったくないのだ。これが、私がMの話を机上の空論と呼ぶ理由である。

 上述の会話では、「結局社会は全員が幸せになるわけではないし、誰かが割を食うことは仕方のないことだ」という結論を話していた。だが、そんなことは私に限らず、誰もがしっていることである。問題は、たとえ社会なり人生なりの状況がどうであれ、具体的にどうすれば目の前の問題をしっかり解決できるのか。その答えまでも言えなければ、単なる独りよがりの机上の空論に相違ないのだ。

 これは何かしらの社会問題(原発問題や公害問題など)に対して社会活動を行っている人々を見ていれば、痛感できることだ。そうした活動に携わっている人々は、Mのような話を言われたからといって「はい、そうですか」と食い下がるわけにはいかないのだ。食い下がったとて、目の前の問題が解決できるわけではない。だからこそ彼らは活動する者同士で集い、話し合い、意見・情報を交換し合い、問題を解決できる具体的な策を講じるのだ。そうした人々に実際に会ってみれば、彼らがそうした具体的な解決案をいかに求めているか(模索しているか)が非常に分かる。

 これはNPO共育学舎の三枝さんをはじめとした熊野の方々がすでに実践なさっていることなのだ。だからこそ、彼らの話は机上の空論ではない肉づけされた説得力のある濃密な内容なのだ。こういった話は、都市部にある洒落た酒場の談話くらいじゃ、絶対に出てこないことである。上述の話だけしてドヤ顔をしているのは、ケツの青いガキの戯言と同じで、周囲の人は見ていてげんなりするだけだ。

 共育学舎でも何でもいいが、自分がまとめ役(リーダー)として実際に何かしら従事する作業をしてみれば、これは分かることだ。私は共育学舎の長期滞在で、滞在者のまとめ役として作業をする際、常に具体的にどうするかを考え、それを求められてきた。「期限内に終わらすためにペース配分をどうするか?」「メンバーの作業分担をどう振り分けるか?」などをよく考え、周りのメンバーに指示を出して動いてきた。こうしたことをやっていれば、上述した机上の空論なんて何の役にも立たない。求められるのは「具体的にどうするか」ということを、私は共育学舎で学んできた。


 友人のM自身について、不満や嫌気があるわけではないのだが、さすがに今回のことは「待った!」をかけるくらい気になることだったので、こうして記事にさせてもらった。この記事をMが読むかどうかは分からないが、少なくとも高みの見物気取りの机上の空論がどれだけ周囲の人をうんざりするものなのかは分かってほしい所存である。


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